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カテゴリ:劇評
現在形の批評 #51(舞台)
楽天ブログ★アクセスランキング ・ポツドール 『恋の渦』 12月9日 THEATER/TOPS ソワレ (その1)より 〔3〕 舞台は数週間の出来事を描いたものであり、暗転中スクリーンには時間と何日後かが表示される。しかし、開ければ以前とさほど変わることのない光景があるだけである。そこには「生態」の変化を示すための時間経過でしかなく、時間が人間の内面をどう変性させたのかというよりも誰と誰がペアになったかという駒の動きを示すのみであり、そういう意味では機械的でしかない。日常生活で見かければちょっと身を引きたくなるような「チャラ男(女)」という一つの記号体が大挙して登場し、対象化されるとやがて無害化すらされてしまう。そのような身体は「過剰さをすでにそなえた」「ノイジーな身体」ではなくからっぽの空洞のような入れ物としてあるだけである。むしろ過剰なのは空間を埋め尽くす二つめの特徴である言葉の方であり、身体は言語発生装置として存在するのだ。 今を呼吸する台詞は俳優の身体を通ることによってはじめて何がしかの意味が生じる。からっぽの身体は言語を与えられることで「からっぽの人間」が顕現化し、身体性が強調されるというパラドックスがここにはあるのだ。とまれ、「チャラ男(女)」の浅薄な関係、ノリとフインキを伝える若者言葉が、この劇の屋台骨を支えている。もう一度劇の冒頭に話を戻そう。関係性を頭の中で整理しながら物語を追いかけることに重点が置かれていない為、人物が何人いるのかはっきり覚えていないと先に書いた。それに加え、観客をそういう思いにさせるのは言語の影響も多分にある。ほどなくしてこのアパートの狭い一室には男女がまた何人かやってくる。なにやら女性を男に紹介するというプチ合コンがはじまろうとしている。やってきた男女を含めて登場人物全員が狭い一室に集まってのやりとりに私は再び目を見張った。ゲームをする者、中央のテーブルをはさんで会話をする者、舞台右手でお互い自己紹介をする者等がてんでばらばらに会話を始める。その声も別段舞台を意識して張り上げることはない。発語は全員に聞こえなくてもよく、日常生活でのようにすぐ目の前にいる者に聞こえてさえいればよいからである。そしてコミュニケーションを取る者同士は激しく入り乱れる。他の人間に横槍(ツッコミ)を入れて場をかき混ぜては大笑いし、また元の会話相手へと戻るというように。他に、そのプチ合コンの目玉としてやってきた倖田來未に似ているという触れ込みの女性が思いのほかブサイクだったことに関し男達が「ゴウダクミ」とあだ名を付けてけらけら笑う箇所には、つかこうへいが『熱海殺人事件』で、世間体などを繕うことなく本音をぶつける登場人物を描いたことを想起させもした。 こういった悪びれることもなく目の前の情報で遊戯する人間はコンビニの前で意味なくダベッている若者のようでもあるし、その意味のなさは繁華街の喧騒にも似た一種の「環境」を想起させる。舞台開始間もなく訪れるこの喧騒の出現は今まで観たことのない光景であり、そのことに私はただただ驚いたのである。舞台にありがちな、人間を変化させる為の白熱した議論でもなく、シチュエーションコメディのような群像劇にある騒がしさでもない別のものが『恋の渦』にはあった。平田オリザがより自然さを醸し出すため、真一本のプロットに枝葉のように現れる会話方法を生み出し、「同時多発言語」と名付けたが、三浦大輔はその手法をさらに展開させ、「同時代多発言語」と呼びたくなるような劇言語を生み出している。単に一つの場所で同時に発語されているというのではなく、今という時代に生きる者に半ば強制されたデジタルツールによるコミュニケーション方式、その情報多過性が齎す不可視の恐怖というものを記号化する言語と、音声化する肉体を通して表象しているのである。 最後、舞台装置(空間造形)には不可視の可視化が企図されている。これが三つ目の特徴である。プチ合コンのシーンから一度暗転した後、舞台空間の大部分を覆い隠していた物が除けられ、新たに三つのマンション、あるいはアパートの一室が登場する。つまり舞台空間には二×二の合計四つの部屋が現れることになるのである。以後、観客は四つの部屋をノリとフインキで行き来する人間をつぶさに「観察」することになる。舞台空間の全貌が明らかになってからが本当の「観察」のはじまりになるのである。ここまで、「俳優」「言語」「舞台装置」を分けて見てきたが、実際の舞台ではその三点がない交ぜに膨大な情報を発する。そこに観客の想像力の入る余地はない。繰り広げられる光景からは、我々が日々雑音に取り巻かれながらそれを雑音と意識せずに享受して過ごしているという事実に思い至る。そしてそれはネット上に自由に発言し、書き込まれて氾濫する情報が、0か100の両極端に偏った虚構世界であるのに近く、限りなく「なにもない空間」(ピーター・ブルック)に近い残酷さを呈する。三浦大輔はセックスに代表される肉感的要素に代表される生っぽさを一方で描きながら、それを非常にアイロニカルな方法で現代の空虚さを剔抉するのである。 作品自体は非常に良くできているし、「あるあるネタ」に大いに笑った。ただし、小劇場演劇史にポツドールを据えてみると冒頭に書いた通り、「現代口語演」を継承・発展させた末の行き着く果ての姿ではないかという感じを強く受ける。舞台で行われていることの表層だけを掬えばこれ以上のリアルはないという所まで行き着いている。他の劇団が模倣しにくい極めて唯一性の強固なスタイルを持っているが、だからこそこの先の展開はポツドールが試行錯誤せねばならないのだろうし、「現代口語演劇」をここまでデコンストラクションした先に何があるのか、その落とし前をつけなければならないと思う。若手の旗手として揚言されるチェルフィッチュと並び立てられることが多いポツドールだが、彼らは一見普通の演劇を装っている点、岩盤な地歩を固めた現代口語演劇を継承しつつ、ひっくり返した地平を今後築かねばならないという困難さを背負っている。それはともすれば、「現代口語演劇の成れの果て」を示しかねない、非常に危険な綱渡りを演じる可能性を孕んだ冒険なのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Jul 25, 2009 10:37:50 PM
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