ネルーの不思議な証言。前回、進化論に関して、1931(昭和6)年に日本人が、進化論を否定したがるアメリカを笑うという「白日の幽霊」について書いたんですが、もうひとつ、面白い話があるので、それをメモ。 後にインドの初代首相となるジャワハラル・ネルーは、インドの独立運動を主導し、イギリスに抵抗して投獄された回数は、実に9回にも及びます。その獄中でネルーは、愛娘のインディラ・ガンディーに、おびただしい数の手紙を送っております。ネルーは未来を担う娘に優しい言葉で深い愛情をこめながら人類の歴史をしっかりと教えておりまして、その手紙を本にしたのが「父が子に語る世界歴史」であります。(ちなみに、ネルーは、日露戦争における日本の活躍に大絶賛しておりますが、この手紙には「その後の」日本の朝鮮や中国に対する行いを厳しく批判しておりまして、司馬史観に近いスタンスをネルーがとっていたことがわかります。これは、詩聖タゴールもいっしょ。) 参照: 楽天ブックス 父が子に語る世界歴史(5)ジャワハラル・ネルー著 大山聡訳 Wikipedia ジャワハラール・ネルー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%83%BC この(5)にですね、「ダーウィンと科学の勝利」という章があります。 「白日の幽霊」の2年後、1933年2月3日に送られた手紙です。 この中でネルーは、ヨーロッパでの宗教と科学、特に「教義(ドグマ)」を優先して科学者たちを磔や火焙りにしてきたキリスト教による抑圧の歴史、そして、それに反抗する科学者の合理主義的な精神をちゃんと娘に教えています。ガリレオやニュートン、アインシュタインの功績にも触れているわけですが、何といってもページが割かれているのはダーウィンの「種の起源」であります。宗教国家・インドの独立と近代化を目指すネルーにとって「宗教と科学」という命題は、我々の想像を超えて巨大な問題であったし、21世紀のインド人にとっても、今なお大きな問題なわけで、最大の衝撃を与えた「進化論」についての論争は、避けて通れなかったわけですな。 ≪ヨーロッパの人々の大部分はまだ、ちょうどキリストが生まれるよりも4千4年前に世界が創造されたという説明を信じ、おのおのの植物や動物は、それぞれ別に創造され、最後に人間がつくられたものと思い込んでいたものだから、彼らは大洪水の説を信じ、ノアが、一種族の動物も死滅させないように、各種の動物のオスとメスのつがいを連れて、はこぶねに乗り込んだという伝説を真にうけていたのだった。このような説は、ひとつとしてダーウィンの説と両立しなかった。(中略)かれらの古い信仰は、いっぽうを信じよと命じるし、かれらの理性は反対のことを主張した。≫(『父が子に語る世界歴史(5)』「ダーウィンと科学の勝利」より) その上で、 ≪イギリスや、そのほかのヨーロッパのほうぼうで、科学と宗教のあいだに大論争がはじまった。その勝敗は明らかだった。工業と、機械的交通手段の発達した新しい世界は、科学に依存するものであった。科学を捨て去ることは不可能だった。科学は全面的に勝利し、「自然淘汰」(自然の選択作用)と「適者生存」とは、このことばの意味をじゅうぶんに理解しないひとまでがごくあたりまえのこととして口にするようになった。≫(同上) ネルーは同時にダーウィンの「進化論」の衝撃が与えたもうひとつの波及作用、すなわち「社会進化論」についても、言及しています。 ≪しかも、まことにおかしなことは、支配階級が、ダーウィンの学説を自分たちの都合のいいように、もじって利用したことであった。彼らは、これによって優劣の証拠がまたひとつくわわったように、かたく思い込んだ。かれらは生存競争で最適者として生き残ったのであり、こうしてかれらは「自然の選択作用」によって頂点に位置し、支配階級となったのであった。これが、あるひとつの階級がほかの階級を、またあるひとつの人種がほかの人種を支配することを根拠づける理由になり、帝国主義と白色人種の優劣の究極の証明となった。それによって、西洋の多くの人びとは、かれらが圧制をほしいままにし、乱暴で、暴力を発揮すればするほど、それだけ人間としての価値の基準からいっても、高いものであるかのように思いこんだ。≫(同上) ・・というように進化論を人間社会に当てはめることにより、「優勝劣敗」「適者生存」の理論が植民地支配の正当化に使われたこと・・(さらに「自然淘汰」を人間の手で行おうと考えると、人種差別にとどまらず、ホロコーストだの民族浄化だのおぞましい蛮行も導いてしまえるわけです。)・・・ネルーにとっては、聖書の教えであろうと、ダーウィンの学説であろうと、解釈する人間次第では結果は同じことで、有色人種への差別と、植民地支配の正当化に使われてしまうと考えたようです。ま、ネルーはそれでも、信仰について尊重しつつも、人間の理性の側、ダーウィンの側を評価しています。 参照: Wikipedia 社会進化論 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E9%80%B2%E5%8C%96%E8%AB%96 社会進化論のうち日本では、自由民権運動のころに流行したスペンサーの理論の影響が強くて、特に経済に関しては、今でも「経済は生き物」とか言っているのも、あのころと変わりませんな。ある意味で真理ではあるけども。 ≪こんにちでも、十九世紀後半とおなじだけの、進歩をたたえる情熱があるとはいえない。もしも進歩の結果として、われわれが、世界大戦で実演したような大がかりな破壊行為をするようになったのだとしたら、その「進歩」には、なにかしらの狂いがあるのだ。≫(同上) 1933年のネルーの言う「世界大戦」とは、第一次世界大戦のことです。もちろん、当時のネルーは核兵器もナチスのホロコーストも知りません。さすがはインド人だなと思える卓見であります。 ・・しかし、個人的に一番驚いたネルーの発見は、ここです。 ≪ダーウィンの「種の起源」の理論の話をしたついでに、二千五百年前に中国の哲学者が、同じテーマについて書いていることを知るのも面白いと思う。かれの名はツォン・ズ(Tson tse)といったが、彼は紀元前六世紀の、おおよそブッダの時代に、つぎのように書いている。【いっさいの有機体は、単一の種に起源を発する。この単一の種が、多種多様の、持続的な変化をうけて、種々の形態をもつ、すべての有機物を発生させた。このような諸有機物は、突然に変異をとげたものではなく、時代から時代へと、漸次的な変遷を経て、変化をこうむったのである。】 これは、ダーウィンの理論にきわめて近似したものだ。古代中国の生物学者が、世界がそれを発見するのに、二十五世紀もかかった結論にすでに到達していたのは驚くべきことだ。≫(同上) ・・・ネルーは「ツォン・ズ」「Tson-tse」と書いていますが、この文章は老荘思想の、 「荘子(Zhuangzi)」の「万物は斉同である」という斉同篇でしょう。荘子は紀元前4世紀の人です。確かに言われてみると、あれは、そうとも読めるな・・ Wikipediaの英語版で「荘子」を調べてみるとありました。 > Evolution > In Chapter 18, Zhuangzi also mentions life forms have an innate ability or power (機) to transform and adapt to their surroundings. While his ideas don't give any solid proof or mechanism of change such as Alfred Wallace and Charles Darwin, his idea about the transformation of life from simple to more complex forms is along the same line of thought. Zhuangzi further mentioned that humans are also subject to this process as humans are a part of nature. 参照: Wikipedia Zhuangzi http://en.wikipedia.org/wiki/Zhuangzi Wikipedia 荘子 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%AD%90 自分は、ネルーの指摘を読むまでは「日本人が進化論を理解した理由」というのは、仏教的な理念からと思っていたけど、考えてみると、仏教が中国化した禅宗は老荘思想の影響を受けていて(いわゆる「荘釈の学」)老荘をたどると、東洋の知恵だけを使って、最短距離でダーウィニズムに到達できる・・・芭蕉だって、漱石だって、儒教というより老荘だわな・・ 「天地我と並(とも)に生(ながら)えて、万物我と一つたり」 「天の為す所を知り、人の為す所を知れば、至れり」 いやいや、 「夫れ大塊我を乗するに形を以てし、我を労するに生を以てし、我を佚にするに老を以てし、我を息わしむるに死を以てす。故に吾が生を善しとする者は、乃ち吾が死を善しとする所以なり」 → 天地は、私を大地に乗せるために肉体を与え、私を働かせるために生命を与え、私が永遠に働けぬよう老いという期限を与え、私を安息にするよう死を与える。すなわち、生きることを大切にするということは、死を大切にするということである(死ですら、生と同じ価値なのだ)。 ということで、次回の「荘子と進化論」に続くのココロだ~~~!! |