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人生朝露

人生朝露

「看羊録」その1。

え~、いろいろ触れたいものもあるけども、今日は「看羊録」のメモ。

「看羊録」とは、1597年の豊臣秀吉による朝鮮出兵(いわゆる「慶長の役」)の際に捕らわれた、李氏朝鮮の官人・姜コウによって書かれたもの。大洲で監禁され、大坂、伏見へと移されながら抑留生活を続けた姜コウが見聞した、当時の日本の情勢や風俗についての詳細な記録集。

姜コウ(「坑」の偏がさんずい。日本読みは「きょこう」・韓国読みは「カンハン」)(1567~1618)

李氏朝鮮の儒家の名門の生まれで、朝鮮の科挙試験に合格したエリート中のエリート。役人として将来を嘱望されていたが、赴任先で日本軍に追い詰められ、名将・李舜臣の軍勢に合流する予定のところを、運悪く藤堂高虎に捕らわれる。

姜コウは、身なりの良さから日本に連行されることとなる。三十歳にしてようやくできた彼の子供「竜」と「愛生」は無残にも海に投げ捨てられて殺された。「泣き声はしばらく続いていたが、満潮になってその声は聞こえなくなった」そうである。さらに、連行された大洲(今の愛媛県大洲市)に着くと、攫われた朝鮮人が千余人もおり、両縁には屍が手荒く山のように積まれていた・・。まさに生き地獄。

何度か逃亡し帰国を試みるも、失敗。しかし、日本の僧侶が筆談によって素性を聞いてみると、姜コウが、日本ではまだ知られていない朱子学者であることが分かり、藤原惺窩(江戸朱子学の祖。林羅山の師。藤原定家の12代目の子孫でもある)らが、彼の教えを請うようになる。彼の江戸幕府の思想的骨組みへの貢献は大きい。また、日本文化に同化することを頑なに拒み、自分の節度を曲げずに、日本語の勉強も一切していなかったという。この態度は、むしろ日本での姜コウの評価を高くして、1600年に釈放され朝鮮に帰国した彼の名誉を回復させる一助となっている。

さて、その「看羊録」。
子供も殺されたとあって、日本(特に秀吉)に対するありとあらゆる罵詈雑言が並べ立てられている。中国の故事がこれでもかといわんばかりに連発され(儒者なんだから当たり前だけど、これも、後の朝鮮の小中華思想の芽かな)、日本人に対する憎悪と蔑視がバリバリで、反日の権化みたいな本・・などという触れ込みを聞いて、図書館に注文して読んでみたのだが、すごいわ。これ。

当然日本は「倭」、日本人は「倭奴(朝鮮人はウェノムと読む。最近の倭寇の本で憶えてしまった)」、秀吉は「賊魁」でほぼ統一されている。誤解を恐れずに(されたって構わないが)分かりやすく言えば、「安倍晋三が北朝鮮に拉致された」みたいなもので、エリートのプライドがズタズタにされた恨みと「何でこんな野蛮な奴らが、我が国の隣にいるんだ!」という怒りに満ち満ちている。

日本人として不愉快に感じる表現が多々あるが、(日本の植民地時代には朝鮮人が「看羊録」を持っているだけで暴行の対象になるほどでだったらしい)内容から言って、慶長のころの日本の様子が詳細に記録されているし、今の日韓関係を見る上でも絶好の本ではないかとも思う。ほぼ絶版の状態であるというのはもったいない。

日本の地理、歴史、文化、信仰、各大名の出自、食邑、性格等の記録は十分に読み応えがある。これは、姜コウが虜囚の身でありながらも、せめて日本の内情を偵察して国に貢献しようとしたものなので、一種のスパイ文書みたいな趣もある。(とはいえ、後に、徳川吉宗のころの朝鮮通信使は、「看羊録」が江戸の町で売られている様子を見て、「賊の偵察に行った本を賊に読まれては意味がないではないか」と嘆いている。)

時間が無くなって来たので、面白いのを抜粋。
これが、本当に絶えず監視下にあった捕虜の記録なのか?

「賊魁秀吉は、尾張州中村郷の人である。嘉靖丙申年に生まれた。容貌が醜く、身体も短小で、容貌が猿のようであったので・・・生まれたとき、右手が六本指であった。成長するに及び、『人はみな五本指である、六本の指に何の必要があろう』と言って、刀で斬り落としてしまった。」

ルイス・フロイスも書いている「秀吉多指症説」。

「(伊達)正宗なる者がいる。代々、陸奥一州に拠り、富貴さは倭国を傾けるほどである。秀吉が信長に代わるに及び、正宗は、戦いに敗れ、服従を請うた・・正宗の凶悍さは、諸倭に比べて最も甚だしく、自分の兄や子まで殺したほどである。生まれつき才能に長けていて・・」

「筑前中納言金吾(小早川秀明)なる者がいる。秀吉の本妻の甥で、輝元の女婿である。・・だいたいその性格が軽薄で、感情の起伏が激しく、その兄たちに及ばぬこと甚だ遠い。舜首座(しゅんしゅそ・藤原惺窩のこと)は、以前、金吾に教えたことがあったので、その人となりを非常によく知っている。)」

姜コウは、1600年の二月に釈放され、朝鮮に帰国しているので、「関ヶ原」のことを知らない。また、姜コウが朝鮮に帰国する直前に、藤原惺窩は秀明と対面し、「内府(家康)は、やがて明年には再挙して、朝鮮を侵そうとしている。」という言葉を聞いている。すなわち、諸大名との対立を回避して和議を結んだ場合、大名たちの兵力を削ぐ目的で朝鮮に兵を送る可能性があると指摘している。まぁ、結局関ヶ原は回避できなかったし、再出兵はなかったが。

姜コウは、倭将、倭卒に質問したことがある。
(度々自決をする日本人を見て)「生を好み、死を憎むのは人も生き物も同じくするであろうに、日本人だけが死を楽しみとし、生を憎むのは、一体どうしてなのか」(いかにも儒者らしいナイスな質問。)

答えは、以降。

「武士道じゃないですか・・武士道じゃないですか!!」と馬淵議員並みに興奮したね。俺は。



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