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人生朝露

人生朝露

ジェダイ(Jedi)と道教(Taoism)。

スターウォーズ エピソード7 フォースの覚醒。
『スターウォーズ フォースの覚醒』公開記念!
今回はジェダイ(Jedi)と道教(Taoism)について。

まずは『シスの復讐(Revenge of the Sith)』の最後のセリフから。
不死の道。
Obi-Wan: I will take the child and watch over him.(私がその子を彼の元へ送り、見守りましょう。)
Yoda: Until the time is right, disappear we will. [Senator Organa and Obi-Wan bow and start to leave] Master Kenobi, wait a moment. In your solitude on Tatooine, training, I have for you.(来るべき時が来るまで、我々は身を隠しておこう。マスター・ケノービ、ちと待ちなさい。タトゥイーンで一人きりのそなたに、ひとつ修練を授けよう。)
Obi-Wan: Training?(修練ですか?)
Yoda: An old friend has learned the path to immortality. One who has returned from the netherworld of the Force...(古い友人の中に「不死の道」について学んだ者がおる。その者はフォースの死の世界から戻ってこれたのじゃ。)

ヨーダが「不死の道 "path to immortality"」と言っています。

アンリ・マスペロ(Henri Maspero/馬伯楽 1883-1945)。
ここで対比していただきたいのが、アンリ・マスペロ(Henri Maspero / 馬伯楽  1883~1945)の『道教』という著作です。彼は20世紀前半のフランスの中国研究者で、西洋における道教研究の第一人者でした。激動の時代に積極的に現地の道士と交流し、「道蔵」所蔵の道教経典の研究に尽力した人物です。終戦間際の1945年3月に強制収容所で亡くなってしまいますが、その死後、彼の遺した資料から『中国の宗教と歴史に関する遺稿』が再編集されて1950年に発刊。この『遺稿』が、西洋における道教研究のスタンダードになります。

『道教』(東洋文庫刊 アンリ・マスペロ著 川勝義雄訳)。
≪古代の道教は何よりもまず信者を「永生」、あるいは中国語でいう「長生」、終わりのない「長い生命」に導くことを目指す宗教である。「永生」という言葉はほとんどキリスト教をおもわせるが、それとは全く異なった観念をひめている。実際、「不死」及び「永生」は、道教徒とキリスト教徒では、同じやり方では問題とされなかった。ギリシャ哲学につちかわれたキリスト教徒は、精神と物質とを二つの別々の実体と考える習慣がついている。すでにキリスト教以前から、死は物質におとずれずにすぎず、非物質的で、本質的に不死である精神は残存し続けるものであると認められていた。が、中国人はわわれわれのように精神と物質を決して区別しなかった。中国人にとっては、見えない、形のない状態から、見える、形のある状態へと移行するただ一つの実体があるにすぎない。人間は精神的な霊魂と物質的な肉体とからでできているのではない。それはことごとく物質的なものなのである。
 (中略)あるいは道教の始祖たちは、死を圧服することによって、この不死をこの世で獲得できるという可能性を信じたのかもしれない。しかし、漢代では、道教徒はみたところそれほど奇跡的でない結果に甘んじていた。かれは生きているあいだに、不死性を賦与された一種の胚芽を自分のなかにはぐくもうと努めなければならなかった。この胚芽は形をとり、成長し、成熟すると、ちょうど蝉が殻からぬけだし、蛇が古い皮から抜け出すように、粗雑な身体を軽くて精妙な不死の身体に変える。この永生への誕生は俗世の死と全く同じであった。道教の信者は一見、死ぬようなふりをした。人々は普通の儀式に従って、かれを埋葬した。しかし死はみせかけにすぎなかった。墓の中に実際に置かれていたものは、かれが自分の肉体の姿を与えておいた剣であり、あるいは竹の杖であった。不死となった真の身体は、永生者〔仙人〕たちのあいだへ行って生きていたのである。これが身体(あるいは屍)の解放、「尸解」といわれたものであり、「尸解は擬死である」とも言われていた。
 つぎの挿話はこの尸解がいかなるものであったかを示している。この話の出典は紀元後三世紀の書であって、これは武帝(B.C.140-87)とおそらくはそのほか数人の皇帝に関する一種の道教的な伝記であり、《漢禁中起居注》と題されている。
 挿話の主人公、李少君は歴史上の人物で、錬金術師であり、同時代の司馬遷ものべている人物である。
 李少君がたち去ろうとしたとき、武帝はかれと一しょに嵩山に登った夢をみた。中途で、竜に乗り、尊厳さのしるしを手に持った使者が、雲から下りてきて告げた。「『太一』の神は少君においでを願っています」と。皇帝は目ざめて、まわりの者に言った。『わたしがほんのいま見た夢によると、少君はまもなくわたしからはなれていくだろう」と。数日ののち、少君は病と称して死んだ。ずっとのにちなって、皇帝はその棺をあけるように命じた。ところがそのには身体はなく、衣服とかんむりしか残っていなかった。
 《抱朴子》には、ほかにも同じような逸話をのせている。たとえば、ある道士とその二人の弟子が死んでから、家族がその棺を開かせた。そのいずれも朱文字のついた竹の枝がみつかった。三人ともみな身体から解放された、すなわち尸解したのである。
 要するにそこには、道教の神話的創始者の一人である黄帝のように、白昼、竜に乗って昇天するという驚くべき奇蹟があったというわけではなくて、信者が死を克服することができた場合には、みせかけの死ののちに幸福な不死を享受するのだということの、信者に対する保証があったのである。≫(『道教』(東洋文庫刊 アンリ・マスペロ著 川勝義雄訳 「西暦初頭数世紀の道教に関する研究」より)

これ、アンリ・マスペロの著作の導入部分からなんですが、
マスター・ヨーダとアナキン・スカイウォーカー。
Yoda: Death is a natural part of life. Rejoice for those around you who transform into the Force. Mourn them do not. Miss them do not. Attachment leads to jealousy. The shadow of greed that is.(死は生命の営みの一部なのじゃ。フォースへと変わる者を喜んで送り出せ。嘆いてはならぬ。寂しがってもならぬ。執着は嫉妬を生み、欲望の影が忍び寄るぞ。)

「見えない、形のない状態から、見える、形のある状態へと移行するただ一つの実体があるにすぎない。」という表現は、「死」を「人がフォースへと変容すること」とするヨーダの言葉とも一致しますし、

参照:Anakin and yoda
http://www.youtube.com/watch?v=c5xkI8uoZYE

オビ=ワン・ケノービのローブとライトセイバー。
前掲の「不死の道 "path to immortality"」としての、オビ=ワン・ケノービの「尸解(剣解)」の技法、

さらに、
アナキン、ヨーダ、オビ=ワン。
「不死となった真の身体は、永生者〔仙人〕たちのあいだへ行って生きていく」という表現も、スターウォーズでのジェダイの魂のあり方にぴったりと重なります。

参照:尸解の世界。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5197/

マスター・ヨーダと老荘思想 その2。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5026/

葛洪(283~343)。
『又按漢禁中起居註云、少君之將去也、武帝夢與之共登嵩高山、半道、有使者乘龍持節、從云中下。云太乙請少君。帝覺、以語左右曰、如我之夢、少君將舍我去矣。數日、而少君稱病死。久之、帝令人發其棺、無屍、唯衣冠在焉。按仙經云、上士舉形昇虚、謂之天仙。中士游於名山、謂之地仙。下士先死後蛻、謂之屍解仙。今少君必屍解者也、近世壺公將費長房去。及道士李意期將兩弟子去、皆託卒、死、家殯埋之。積數年、而長房來歸。又相識人見李意期將兩弟子皆在郫縣。其家各發棺視之、三棺遂有竹杖一枚、以丹書於枚、此皆屍解者也。』(『抱朴子』 論仙篇)
→また『按漢禁中起居註』にいう。李少君がこの世から去ろうとするとき、武帝は夢を見た。少君と共に嵩高山に登り、道の途中で、龍に乗り杖を携えた使者が雲の合間から降りてきた。彼らは太乙が少君を呼んでいるという。武帝はそこで目覚め、左右にその夢の話をした。「もし私の夢の通りであるならば、少君はもうすぐ私の元から去るだろう」と。数日後、少君は病死したという。しばらくして、帝は使者に棺を開けさせてみると、少君の屍はなく、ただ衣冠のみがあった。また、『按仙經』によると、「上士は身体をそのままに虚空へと昇る。これを天仙という。中士は名山に遊ぶ、これを地仙という。下士は一度死んで蝉の抜け殻のような状態になる。これを屍解仙という」とある。そうすると、少君はきっと屍解者であったのだろう。最近の例でも壺公は費長房を連れ去っているし、道士・李意期は二名の弟子を連れ去っている。皆何かに仮託して死に、家人が殯をしてこれを埋めている。数年経ってから、長房は帰ってきたし、李意期と二名の弟子は四川で知人に会っている。家族が棺を開けてみると、三人の棺には、それぞれ竹の杖が一本ずつ入っていて、丹沙で名前が書かれていたという。これは皆、屍解者であったのだ。

尸解 屍解。
アンリ・マスペロの「遺稿」では、道教の説明をする場合に、他の思想、例えばギリシャ哲学の後継としてのキリスト教の思想やイスラム教との対比に重点が置かれます。身体と精神の関係や尸解について最初に触れるというのは、西洋人ならではの展開です。『抱朴子』にもあるように、「尸解仙」というのは、本来、天仙、地仙に続く下位の仙人のランクでして、映画で急に知名度が上がった「キョンシー」とかと一緒で、比較文化的論的には使いやすい素材ではあっても、道教の本質的な思想とは言い難いです。

アンリ・マスペロ(Henri Maspero/馬伯楽 1883-1945)。
ここは、ジョージ・ルーカスがその影響を公言する、ジョゼフ・キャンベルともまた違ったアプローチであるところが興味深いです。道教研究におけるアンリ・マスペロの位置からすれば当然ではありますが、彼、もしくは彼の弟子の著作も『スターウォーズ』のネタ本のうちの一冊であろうと思います。

参照:ジョゼフ・キャンベルと黄金の華の秘密。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/005201/

今日はこの辺で。


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