指揮者の意味
小澤征爾さんが亡くなりましたねえ・・・。 ところで、私は幼少の頃から「指揮者って、意味あるの?」という疑問が払拭できず。というのは、幼稚園の頃、学芸会だったかで私が指揮をすることになって、その時の思い出が強烈で。 私はなぜかその幼稚園のスターだったし、幼稚園で四拍子のタクトの振り方を一瞬で覚えたのは私だけだったので、全校を代表して指揮者の役割を担ったのも誰もが納得だったのよ。 で、大勢の父母を前に、幼稚園児たちの合唱の指揮を振ったのだけど、1番を歌い終わった段階で、もうこれで用は済んだと思い込んだ私は、父母に一礼してそのまま袖に下がったわけ。でも実は2番の合唱がまだ続いていて、幼稚園の仲間たちは戸惑った表情を浮かべ、父母たちは大爆笑っていう。 指揮者なんていなくてもいいんじゃん! というのは、この時の経験から私が学んだことだったのでした。あと、指揮者ってのは、コミカルな役回りだ、ということも。 大体、私が小さい頃、日本で一番有名な指揮者は山本直純だからね。面白い恰好をして、コミカルに指揮を振り、最後はジャンプする。要するに指揮者というのはピエロなんだ、というのが私の当時の認識であったとしても、それは私だけのせいではないと思う。(とはいえ、山本直純って、小澤征爾の先生なのね。あの人、実はちゃんとした人だったんだ・・・) その後、中学に入って、クラス対抗の合唱コンクールというのがあって。我々のクラスの指揮をしたのは、当時オーケストラ部の主将だった「オシ君」こと押川君。 ところが、勝ち気に逸った我がクラスは、オシ君の指揮なんてなんのその、どんどんテンポが速くなり、仕方なくオシ君の指揮もそれに合わせて速くなってしまった。我々が指揮者に合わせるのではなく、指揮者が我々に合わせたわけよ。で、最後は伴奏のピアノが追いつかないくらい速くなってしまって、結果、惨敗。オシ君には気の毒だったけど、この時も「指揮者って、意味ある?」という私の子供の頃からの疑問がさらに強まった次第。 そう言えば、オシ君はその後、心臓病で早くに亡くなってしまったなあ。心臓まで早鐘を打たなくてもよかったのに。いい奴だった。RIP。 で、そんな思い出話をしていたら、音楽をやる家内から、「『指揮者なんて要らない』とか、そういう馬鹿なことを言う奴は一杯いる」と言われました。 それはさておき、私が少しだけ指揮者って面白いのかも、と思うようになったのは、岩城宏之さんが書かれた本を読んだため。これこれ! ↓【中古】 フィルハーモニーの風景 岩波新書/岩城宏之【著】 これ、岩波書店の『図書』に連載していたのをまとめたものですが、私は連載中から愛読していて、非常に面白かった。ウィーン・フィルの意地悪なこととか、カラヤンとの確執だとか。そういうオーケストラの裏側が見れて。 そうそう、ウィーン・フィルって、外様の指揮者に意地悪をする時、指揮者ではなく第1ヴァイオリンのテンポに合わせて演奏し、指揮者に恥をかかせるんだよね。すごいオーケストラですこと。でも、このことからしても「指揮者なんて、要らない」というのは、まんざらアホな言い分ではないわけよ。 それはともかく、私の指揮者なるものに対する認識なんて、その程度。だから、小澤征爾さんの何たるかなんて、私にはとても云々する資格がない。 ただ、一つ、小澤征爾さんは、恩師である斎藤秀雄さんのことをいつまでも慕って、「サイトウ・キネン・フェスティヴァル」とか言うのをずっとやっていたでしょ。ある意味、斎藤秀雄より小澤さん自身の方がよほど世界的に通用するビッグネームになったのに、それでも若い頃に恩師から受けた恩を忘れないというところ。ああいう小澤さんの考え方が、私にはね、しっくりくるところがある。私も恩を受けたら忘れないという、ヴィト・コルレオーネ譲りのマフィア体質なものでね。 ということで、まったく資格がないんだけれども、日本を代表する大指揮者、小澤征爾さんのご冥福をお祈りしたいと思います。合掌。