10 戦争と鉄道
昭和十一年、郡山機関庫は、郡山機関区に改称されました。ところがその翌年の七月七日、中国北京郊外の盧溝橋で日華両軍が衝突したのです。日本政府の不拡大方針にも関わらず戦火は拡大し、やがては太平洋戦争、そして敗戦という泥沼に足を踏み入れて行くことになります。駅にも『日本精神の発揚』『撃ちてし止まん』などのスローガンが大大的に掲げられ、駅頭では『祝・出征◯◯君』という『のぼり』と日の丸の旗で送られる若者の姿が、多く見られました。国内では『石油の一滴、血の一滴』と叫ばれ、国鉄の気動車の運行にはガソリンの使用を止め、木炭を燃焼して作る木炭ガスが使用されました。しかしこれが力不足のためうまく働かず、結局は石炭を使用する蒸気機関車のみでの運行となったのです。 昭和十九年、白棚線は不要不急線として休止され、レールなどが撤去されました。このレールなどは、おそらく戦地でのレール不足、そして鉄資源として、兵器などに改鋳されたものと思われます。そしてこの年、日本海軍の大槻飛行場の工事がはじまりました。『大槻飛行場工事用軌道(http://kaido.the-orj.org/rail/otk.htm)のHPによりますと、『昭和十九年十一月に起工式が行われ建設工事がはじまったのですが、未完成のまま終戦を迎えています。この軌道は、飛行場建設の際、必要な石材を大槻町葉山の石切場から運搬するための軌道として設置されたそうですが、その痕跡は残されていないようです。しかし、この工事に伴い、石切り場となった葉山に鎮座していた葉山神社が、基地建設にあたった山谷部隊により、東に建っていた春日神社の裏に、やや大型の石造の祠に遷宮され、右側面には、「昭和二十年 山谷部隊 再建」とあります。『再建』とあるのは、おそらく葉山神社を遷宮した折、老朽化していた祠を新造したからではないかと思われます。左側面には、社司、町長、総代の名が刻まれていた。ある意味、戦争の犠牲になった神社であるが、今でも大切にされているようで、なによりであった』とありました。恐らくこの祠の右側面の文字が、唯一、飛行場工事用軌道の存在した証拠なのかも知れません。ただこの軌道の動力ですが、この石切場のあった大槻町葉山下から工事現場までは、一キロートルにも満たない近距離であったことと、敗戦直前の物資不足の時期から想像すると、内燃機関などの動力ではなく、牛か馬、もしくは人力によって運行したものと想像できます。なおこの山谷部隊は、海軍の部隊であろうとの推測はできるのですが、それ以上についての詳細は、分かりませんでした。 郡山は、昭和二十年四月十二日、そして同じ年の7月二十九日、八月九日、および八月十日の、合わせて四回の大空襲を受けています。当時の郡山市は、郊外の田村郡高瀬村に第一から第三までの海軍航空基地、、これは今の日本大学工学部と郡山工業団地になりますが、その他にも、今の希望ヶ丘に陸軍を抱えており、大槻には新たな海軍飛行場の工事がはじまっていたのです。場所は、いまの陸上自衛隊郡山駐屯地のある所です。しかも郡山は軍都と指定されており、隣の三春にも陸軍第七十二師団第百五十五連隊本部が駐屯していたのです。その他にも、エンジンのノッキングを防ぐ四エチル鉛を製造していた保土谷化学郡山工場、そして中島飛行機郡山工場、さらには軍需工場となっていた三菱電機郡山工場や日東紡績などがあり、その上、軍需工場として関東地方で操業していた親会社と共に疎開して来た下請けの工場があったのです。そのためもあってか、アメリカ軍のB29爆撃機の波状攻撃の目標にされたものと思われます。もっとも被害の大きかったのが四月十二日の空襲でした。この日、数十機からなるB29爆撃機の編隊が来襲、第二百五十二海軍航空隊所属の四機の戦闘機で迎撃に向かったのですが防ぎきれず、保土谷化学郡山工場、日東紡績富久山工場などを中心に爆撃を受け、郡山駅まで被害に遭っています。死者は学徒動員された現在の白河旭高校の生徒が十四名、郡山商業高校が六名、安積高校が五名、安積黎明高校が一名のほか周辺住民などの合計四百六十人で、堂前の如宝寺には保土谷化学郡山工場における学徒動員の死者二十六名の慰霊碑が建立され、毎年四月十二日に慰霊祭が行われています。 昭和二十年七月二十日、核物質こそ用いてはいなかったものの、模擬原爆が全国いくつかの都市に落とされました。アメリカ軍は、それによって原爆を投下するための搭乗員を訓練し、爆発時の効果を予測するためのデータを得ようとしていたようです。模擬原爆の福島県での投下は、福島と郡山と平の合わせて六弾でした。郡山に落とされた一弾は、日東紡績郡山第三工場、いまのザモール郡山店に、そしてもう一弾は、当時の郡山駅構内のトイレ前のポイントの切り替え場の付近に落とされました。なお戦後になってからですが、郡山駅を利用していた私は、この落された場所を鮮明に覚えています。話を戻しますが、この項は、 テレビ朝日の報道番組、平成十五年八月十八日に放映されたスクープスペシャル、『幻の東京・原爆投下作戦・天皇を狙った男』からの抜粋です。この番組の中で、アメリカ国立公文書館で見つかった文書が放映されていましたが、そこには間違いなくKoriyamaの文字が映し出されていました。もしこの文書が放映されることが前もって分かっていたらビデオに取っていたのにと、今でも残念に思っています。それにしてもアメリカ軍は、いつの時点かは不明ですが、戦後になってから着弾地点まで調べているのですから驚きます。また郡山への模擬原爆投下については、平成二十五年に出版された工藤洋三・金子力共著の『原爆投下部隊 第509混成軍団と原爆・パンプキン』にも記述があり、その百十三ページには郡山駅へのパンプキン投弾の損害評価と写真が載せられているそうです。 戦中は国鉄ばかりではなく、私鉄も多くの被害に見舞われました。これはアメリカ軍の爆撃によるものもありましたが、人員や資材の不足が大きな理由であったとされます。しかし戦中は報道管制が敷かれていたので、これらの詳細が一般に知られるようになったのは、戦後になってからのことでした。