丹羽清隆さんのこと
丹羽清隆さんのお墓参りに行く。御厨貴氏の『オーラル・ヒストリー』(中公新書)には、テープ起こしについての記述がある。「テープ起こしには専門家は必要なく、大学院生にアルバイトでやらせておけばすむとか、何度も聞けば誰でもできるというような発想ですましてきたわけである。……そのようなことがなぜまかり通ってきたのか。実は雑誌などの速記は、それをまとめる編集者が存在していて、わけのわからない対談や座談のテープ起こしも、編集者が名人芸のようにうまく直していたからである。 さて、われわれのオーラル・ヒストリーで特徴的なのは、テープ起こしをした人の名前を速記録に載せることにした点である。これは、テープ起こしを職業として認めると同時に、責任を負ってもらうことを意味する」オーラル・ヒストリーのメソッドを確立しようとする中で、テープ起こし段階のことも加えることになったのは、丹羽さんの功績が大きい。テープ起こし原稿というのは玉石混淆だが、すべてがすべて「大学院生のアルバイト」というわけではない。ただ、どんなテープ起こし原稿も「言った言葉をそのまま書く」という原則に則っている。それこそがテープ起こしなのだから、いかに聞き取れるか、いかに再現しているかがテープ起こし原稿の良し悪しになる。丹羽氏は雑誌のライターで、たまたま雑誌の座談会の原稿を担当したことで研究者に出会った。「この座談会のテープ起こしをした人に、われわれがやっているオーラル・ヒストリーという研究の記録を担当してもらいたい」と依頼されて、オーラル・ヒストリーの記録者の道に入る。ライター・編集者という出自の人がテープ起こしをするのだから、それは自然と「言った言葉をそのまま書く」のではなく、「言った言葉を編集して、読める文章にする」という文章になる。研究者に同行して録音し、必要な資料ももらい、継続して一人の人のライフヒストリーを聞き続ければ、格段に内容の理解は深まる。もともと備えているライター・編集者の技量でテープ起こしすれば、「編集者による編集済みのテープ起こし原稿」というものが出来上がる。プロのテープ起こし者は徹底的に聞き、徹底的に拾うことに厳格だ。だから、最初のうちはもしかするとプロのテープ起こし者から見れば、「甘い」原稿だったのではないかと思う。テープ起こし者から見れば、彼の原稿の「丸め方」は禁忌だ。「そんなことまでテープ起こしはやってはいけないことになっている」。その、いわばテープ起こし出身者でないマイナス点がプラスに働いて、テープ起こしの制約を楽々と乗り越え、クライアントの意向に沿った原稿のあり方を開拓していった。オーラル・ヒストリーという手法が拡大する中で、丹羽さんは記録者として重用されていく。あの元総理大臣の、あの経済界のドンの、あの大物官僚のオーラル・ヒストリーにも「記録・丹羽清隆」の名前が記載されている。その中で彼自身によって、オーラル・ヒストリーの記録に関する独特のメソットが磨かれていく。それはおそらくそれまでほとんど世の中にない原稿だった。「編集済み」と言っても、テープ起こし原稿であることに変わりない。端から端まで発言したことは網羅されている。日本語文法は正しく修正されている。歴史的な文脈の事実確認がされている。それでいて、話し言葉の語り口調は残され、いかにもご本人がそう語ったかのような文字が並ぶ。こんな逸話がある。東京の山の手言葉は柔らかくて、ちょっと女性的な言い方をする。「~かしら」とか、「~だわ」とか。それは話している分には全く自然だが、文字にするのはどうかと考えた丹羽さんが少し男言葉寄りにして原稿を作った。それを読んだご本人は、「これは僕がしゃべったとおりではないね」と言った。「でも、このほうがいい」と続けて言われたのだそうだ。いったいどうやってこれほどの仕事量をこなしているのかという中で走り続け、2011年3月10日に永眠。享年60歳。横浜の墓地は、よく日の当たる明るいところだった。「すみません。なんとか頑張ってます」と挨拶してきた。