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イラクの人質テーマでは思想的な部分を省きたかったけど、
思想はけんかするからいかんと、否定しているわけでもない。 ある程度までの強力な思想というものは、人が人としての形を取って成長するのに、必要なものではないかという気がしている。 小林よしのりの「新ゴーマニズム宣言」が、悪魔ちゃん騒動を「本能が衰えてるぞ」と批評していた頃、その前辺りから連載を眺めつつ思っていたけど、精神というものには型の練習が必要じゃないかと思えてきた。 体系と言うものを知らない者に、体系の形を与えるということ。 それがないので、考えているようで考えが道具でしかない。表面のことばの組み合わせか、損得計算の狭い延長でしか理解できない。その飢えと衰え。だから他人の強烈さに簡単に呑まれる。 実際の経験から世界を知れ、と言えばもっともらしいが、それだけではたいていの者にとって若いときに理想をもつことはできなくなる。 おまけに、平和な日本での経験では、極端なことを考えることは自分に必要ない、ということになってしまいそうだった。 左翼にしろ、宗教にしろ、右翼にしろ、そのある程度の強力なあり方は、人間の精神の種として必要かもしれないと思う。 右翼の民族主義的な宗教がかった集団精神論、左翼の極端な合理理想主義、宗教の精神主義、どれも。 型より入りて型を出る、というような精神の初期型。 体系の形があるということを知るための経験。 それを、ひとつの型の中でだけ固まって、宗教の狂信のように、卒業するためには片方に再狂信しないといけないのは困るが。 ただ、思想が分らない者だらけだと、社会の精神が子供っぽくなるというのはあると思う。 「十代で社会主義に熱狂しない者は熱情が足りない、二十代になっても社会主義者でいる者は知能が足りない」、 というチャーチルのセリフは、 「思想 (自分の思想でも) を持ったことがない者は成長しようと言う意志が足りない、そのまま固まってしまう者は人情か他者の存在が足りない」 と言い替えられるのではないか。 一長一短か。 それで逆に言うと、 いくら自分は正しいつもりでも、ふつうは知性がやわか臭みがあるか、どちらかのはずだということ。やわでないなら臭みがある、それを隠すわけにもいくまい。 正しさぶりにはしょせん限界がある。だから正直な方がいい、 ・・・と言いたいが、ここから先は戦略の話が絡んでくる。・・だからこその臭みか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2004年05月11日 20時38分33秒
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