ガイジンの夕べ(14) 朝鮮人と日光
りり: 前回は東照宮の拝観料を払いさえすれば見られるVOCの献上品を まとめて紹介しましたが、日光にはそれ以外にも会社からの献上品が現存しているようです。レフィスゾーン: へえ?それは興味あるな。 どんなの?り:現物の写真はないのでここにはお載せできませんが、1671年に献上された ユニコーンの角と「聖遺物箱」が『輪王寺 宝ものがたり』に載ってます。 白黒の写真ですけど、ほらこれ。(と、本を回覧する)ケンペル: ほう、私が来日する20年ほど前の献上品か。 ユニコーン・・・一角(イッカク)の角はずいぶんと長いままが、未使用なのか? (イッカク:国立科学博物館『海のハンター展』より)金仁謙: ・・・これをどうやって使うというんだ?ツュンベリー: 日本人はイッカクの医学的効能・効果を、寿命を延ばし、精力をつけ、記憶を増進し、 どんな愁訴にも効くと誇大に考えていたんだ。 そういう事情を我々が偶然知ってからは、注文できる限りのイッカクを ヨーロッパから取り寄せて日本で売り、莫大な利益を挙げた。 イッカクは以前は頻繁に密輸され、信じられないほどの利益をあげたそうだよ。り:利益に目がくらんでそうやってヨーロッパ人が色んな生き物を見境いなく乱獲するから、 絶滅の危機に追い込まれた動物たちが沢山出たんですよ。 反省しなさい、反省。申維翰: しかし、倭人だって喜んで密買していたのなら、オランダ人ばかりを責められないだろう。り:ふん。 『宝ものがたり』のイッカクの解説には、【今日まで長いままということは使用法がよく わからずにしまわれていたのかも知れません】とあるんですけど、 申さんの前の通信使が1711年に来日した際に、毛利吉元に贈った品々が 県立山口博物館に現存しています。金:どのような品だ?り:黒麻布・黄毛筆・真墨・色紙・栢子・硯石・扇子といった品々のようです。 このほか、朝鮮人参もあったようなんですが、それだけは使用されて残ってないらしいです。 てことは、使えるものは使ってしまおうというスタンスもあったと思われるので、 イッカクがそのまま残っているということは、『宝ものがたり』が推測しているように 使い方がわからなかった可能性もありますね。 もっとも、日光への献上品だから使おうという意識が湧かなかったのかもしれませんが。 イッカクと同時に献上された聖遺物箱の方は、カラーの写真もありますよ。 (と、『日光東照宮と将軍社参』を回覧する)ツ:ほおお~、全体的にシックな色合いにまとめられているな。 この下に日本語で書かれているのは解説文かな? ドゥーフ君、ちょっと読んでくれないか?ズーフ: どれ・・・ 【聖遺物箱は寛文11年(1671)、家光の21回忌にユニコーンの角などとともに オランダから献納された箱で阿蘭陀箱ともいわれる。周囲を象牙で覆った木製の箱は 宮殿を模し、蓋上には金工で旧約聖書ダニエル記第13章「スザンナと長老たち」の 図柄がレリーフされる。側面にはグラビュール技法を用いて草花や人物などを彫刻した ガラスが嵌められ、箱底にはラピスラズリなどの宝石が埋め込まれる。本品は美しい 宝石でスザンナを象徴し、側面の透明なガラスで真実は全て白日のもとに晒されるという 聖書の一説を具現化した工芸品である。】 (「日光東照宮と将軍社参」企画展図録(徳川記念財団・江戸東京博物館)より)申:もとになったのは一体どういう話なんだ?レ:裕福なユダヤ人の妻スザンナは、庭で水浴をする習慣がありましてね。 それを知った2人の長老は、よこしまな思いを持ってスザンナが1人で 水浴しようとしている時を見計らって近づき、自分たちと関係を結ばなければ お前が若い男と密通しているのを見たと公言してやるぞ、と脅したんです。 当時、姦通罪は死刑に相当する重罪でね。 ところがスザンナはきっぱりと彼らをはねつけ、大声を上げて助けを求めました。 願いが果たせなかった長老たちはその腹いせに、スザンナを脅迫した通り 彼女が密通しているとウソの申し立てをしました。 法廷に召喚されたスザンナには有罪の判決が下り、死刑宣告をされてしまいますが、 そこへ青年ダニエルが登場して彼女の無実を証明する、というお話です。り:もっとも、芸術家たちにとってのスザンナは女性の裸体を描くための 格好の題材だったという話もありますけどね。金:なぜそのような話が関白の墓所に納められたのだ? ちょっとこの絵は小さくて、どういう図柄になってるのかまでは確認できないが・・・ (と、食い入るように写真を眺める)ズ:いや、「本品は美しい宝石でスザンナを象徴し」とあるから、 スザンナの水浴の場面をそのまま描いているのではないのだろう。 そもそも当時の日本では宗教に関する本やロザリオ・キリスト像・聖母マリアの絵など、 信仰を表わすすべての物を持ちこむことは厳禁されていた。ツ:本の持ち込みは自由だが、宗教に関する本はすべて、特にそのなかに銅版画の 挿し込みがある場合は持ちこむのは非常に危険だったな。り:持ち込んだ物が宗教関係かどうか、判別できる日本人がいたんですか?レ:日本人にはキリスト教は禁止されたけど、隠れキリシタンを除く日本人が キリスト教をまったく知らなかった訳じゃない。 商館を平戸から長崎に移すよう命令した当時の大目付・井上政重殿などは 宗門改という役目柄、キリスト教には精通していたと聞くよ。 その他にも、目利(めきき)がいる。り:目利?レ:前時代にはキリストや聖母像などの聖画をはじめとする、いわゆる南蛮画がもたらされた。 肥前有馬では、天正8年にセミナリヨがつくられ、ここで絵画教育が行われ、 多くの銅版画が作成され、いわゆる南蛮絵師が出現した。 その後、弾圧の時代になると絵師は絵筆を折り、急速に衰えた。 ところが長崎ではこれらの伝統のうえに立って、絵師が細々とながら生き続けていた。 その彼らが地役人に取り立てられて「唐絵目利」と「出島御用絵師」となって復活した。 唐絵目利というのは、日本に輸入される絵画を、キリスト教と関係がないかどうか、 あるいはその価値について検分するのが一つの重要任務だった。 その検分は、単に中国からだけのものでなく、オランダからのものも対象とされた。り:ほお~。ズ:それだから、毎年日本に来るオランダ船の船長は、信仰を表わすすべての物を 箱に入れさせる義務があった。 この箱は船上で検使が封印するが、陸揚げし、出島に運ばれた後は船の出帆まで 出島乙名が保管し、出帆の前に封印されたままの状態で船に運ばれて返還される。り:武器類と同じ扱いってことですか。「危険物取扱注意」だな。ズ:それでも、私の時は新旧訳聖書や詩篇は自由に持ちこめた。 オランダ人が日本で守らなければならないことは、本の封印と、人員点呼だけであり、 これは多くのカトリックの国で、オランダ人が礼拝をするために受ける弾圧より はるかに少ないものだ。り:そもそも、スペイン人やポルトガル人が日本から追い出されたもっとも大きな要因と 考えられるのがキリスト教でしたからね。 この聖遺物箱がスザンナの話をそのまま表現したものだったら、 目利のチェックに引っかかって献上どころか日本に持ち込めなかった可能性も ありますよね。 別の言い方をすれば、キリスト教関連ってバレたら大問題になるとわかっていながら 持ち込むオランダ人も相当ふてぶてしいっつーか。レ:ふふっ。 まあ、これだけ美しい品だし、ちゃんと日光に奉納されたんだからいいじゃないか。 ところでこっちの白黒のページには美しい皿のようなものが見えるけど、 これも日光の所蔵品かい?り:あ、それも渡来品のガラスのお皿らしいです。 ちょっとどこから贈られた品かはわからないんですが・・・ 皿の真ん中に何か文字が描かれてるんですけど、ちょっと虫眼鏡で見ても なんて書いてあるのかよくわからないなあ・・・ツ:どれ?貸してごらん。(と、虫眼鏡と「宝ものがたり」を取り上げる) う~ん、確かに読みづらいなあ・・・ それより、文字の下にある絵はキリストとエンジェルのように見えるけど・・・ いや、胸を布で隠してるから女性かな? 少なくとも、エンジェルは間違いないな。 これは「ヤバい品」に該当するんじゃないのか?り:でも、この皿は天海の所蔵という伝承があるらしいです。 天海の没年は1643年だから、キリシタンの弾圧が激しくなる前の舶来なら 問題はなかったかもしれません。 あるいはポルトガルからの献上品だったかもしれませんよね。 『宝ものがたり』によると、この他に鼈甲の燈籠もオランダから献上されたようです。 写真が載ってないので、現存するのかはわかりませんが。 鼈甲の燈籠なんてどんなだろ? たぶん、材質から言ってそう大きくはないランプのようなものなんじゃないかと思いますが。 残ってるのなら見てみたいよな~。ツ:会社が持ち込む品には会社の商品として販売する品と、個人が私貿易で売る商品があった。 スマトラ樟脳と鼈甲は会社が貿易の権利を有しているので、私貿易は許されなかったんだ。り:へえ~。 ちょっと話はずれますが、静岡の東照宮にあるイエアスの遺品の中に 鼈甲の鼻眼鏡の枠があるらしいですよ。 それもオランダ人から献上されたという伝承を持っています。ケ:ほう、本当に日本人はもの持ちが良いな。レ:会社からの日本の輸入品のうち、ガラス製品では眼鏡が輸入の頻度と数量で最高だった。 とりわけ鼻眼鏡が多い。 鼻柱を挟んで使う左右2つレンズの蔓なしの眼鏡で、老眼鏡だよ。 これは50歳用から100歳用まである。 ほとんど輸入しない年がないほどで、主として江戸で売った。 多い年には500個を超える販売がある人気商品だ。 お前がさっき使っていた虫眼鏡もこの時代には読書に用いられたので輸入は絶えないな。 これは初め、「虱のめがね」といった。申:虱を取るための眼鏡ということか?レ:申さん、察しがいい(笑)。 船の船員などが、体についた虱をとるのに使っていてね。 日本人はこれを「虫眼鏡」とうまく訳して、読書に用いた。 それで我々ものちには「読書用のめがね」と書き改めるようになったんですよ。り:1636年の段階でポルトガル人がもたらしたものの中に「鼻眼鏡 19,435個」が ありますね。 江戸初期から鼻眼鏡は日本人にとって必需品レベルだったようですね。 ちなみに、同じ年のポルトガルからの輸入品に「魚取り用糸」があって、 1,244,900ってすごい本数なのが笑えますね。 ・・・え~と、じゃあついでに日光にある朝鮮からの献上品も紹介しますかね。金:ついでとは何だ! 無礼な!!り:じゃあ、紹介しなくていいですか?金:むっ・・・・・・・・ 生意気な。 またこらしめられたいのか?り:死人なんかに負けるかよ! 生きてる人間の情念の方が強いに決まってんだろーが!!ツ:お~い、こらこら。 意地悪しないで、見せてやりなさいレ:そうだよ、きっと素晴らしいものだろう。 ね?申さん。申:もちろんだ。 さっさと見せろ、倭人。り:ちっ、えらそーに・・・ じゃあこれ。 これがVOCのスタンド型燈籠の隣にある朝鮮鐘↓。 ・・・・・あっっっ!!ケ:なんだ、どうした?り:撮りもらしたと思ってた1640年献上のブラケット型灯架が 隅っちょに映ってるう~!!レ:えっ、どれ!?り:ちょっと見づらいけど、隅っちょだけ拡大しました。 ツ:なるほど、確かにブラケット(壁面に取り付けた照明器具)だ。 これが12本取り付けられているという訳か?り:たぶん。 今度行ったら必ず綺麗に撮ってきますね。ケ:だが、確か日光へは4~5日ほどかかるんじゃなかったか? そんなに気軽に行かれるものなのか?り:現代ならうちから3時間ほどで行かれます。 充分日帰り圏内ですよケ:ほお、300年ほどでずいぶん技術も進歩したようだな。申:それより鐘の紹介をしろ。り:へいへい。 鐘を吊るしている上屋にはこんなのが付いていて たぶん、特徴からしてこれは獏(ばく)だと思われますが、 VOCの回転燈籠の上屋にもよく似たものが付いているので↓ 日本側で建造したものかもしれませんね。 ちなみに獏は 【『白氏文集』によれば、獏の食料は鉄や銅で、世の中が乱れている時は、食料となる 鉄や銅が武器になってしまうので、武器を必要としない、平和な時代にしか生存できない 動物である、と記されている。】 (『東照宮再発見』より) ということで、特に東照宮の御本殿に集中して用いられているのは、徳川によって 平和な時代がもたらされている象徴だと考えられる、と高藤氏は解説してるんですが、 回転燈籠も朝鮮鐘も銅製なんだから、銅が大好物の獏にこれらの献上品を 守らせるっていうのも何かおかしな話ですよね。申:どのみち獏は想像上の動物だ。 現実と混同しておかしなツッコミ入れるんじゃない。り:冗談の通じない石頭め・・・ 雨森東(雨森芳州)も苦労しただろうなツ:あ~、もう・・・ どうしてお前たちはそう仲が悪いんだ。申:無礼な倭人は適宜こらしめる必要がある。 オランダ人も言われっぱなしにしないで、少しはやり返したらどうだ。ツ:仲裁に入って朝鮮人にカウンターを食らわされた・・・ 割に合わないり:ツンさんが可哀想だから、話を続けてあげる。 これは1642年の作で、翌1643年に来日した第5回の通信使が 日光に参詣して奉納したものです。 江戸期に12回行われた朝鮮通信使のうち、3回の使節が日光を訪れてますが、 最初がノイツを救った灯架が献上されたのと同じ1636年。 2度目がこの鐘を奉納した時で、同じ年にVOCの回転燈籠が献上されました。 3度目が1655年で第6回の通信使が参詣しました。 『宝ものがたり』によると、初回の参詣人数は214人で3度目は322人。 2度目の人数はわかっていないらしいですが、まあ300人前後でしょう。 「(2)」でも話したように、朝鮮通信使はこういう楽人やら↓ (以上3点の画像は長崎歴史文化博物館展示資料「朝鮮国信使絵巻」より) 珍奇な朝鮮人で構成されていたので、どこでも日本人に大人気でね。 現代でも通信使のパレードを模した「唐人おどり」が各地に遺されているんですが、 1814年に描かれた『東照宮御縁起』(日光輪王寺所蔵)にも 1636年の通信使参詣の様子が描かれてますよ。 ポルトガル人は遠く東北まで布教の手を伸ばしていたようですが、 「鎖国」が完成してからはオランダ人も琉球人も東上しても江戸止まりだし、 中国人は、と・・・ケ:中国人も我々のように参府を望んでいたが、彼らには許されなかったんだ。り:だから、江戸より西の街道沿いでは比較的ガイジンを目にする機会も多かったけど、 江戸より東になるとそういう機会はなかったから、朝鮮人の日光詣ではさぞ 東国人の目を惹いただろうなと思いますね。ツ:そういえば、1636年に朝鮮人が来た時には商館の助手のダニエル・レイニエルセンが 一行を目撃したそうだよ。 え~と、これは日本の暦でいうと1636年の年末のようだな。 長いからレイニエルセンの報告を要約すると、1637年1月4日(←西暦)に 朝鮮の2人の大官が通信使一行と多数の日本人貴族を従えて江戸に到着した。 まず舞踊や笛、太鼓の奏楽があって、その後に稲を打つ時のような大きな棒を持った数人が 2人ずつ道の両側を進む。その後には赤いのぼりのついた槍を持って馬に乗った若者が続き、 その両側は金と生糸をより合わせた綱を持った3人が警護する。 その後には小さな赤い幟を手に持って中国人のような着物を着て幅広の縁のついた馬の毛の 黒い帽子をかぶった30人の若者が馬に乗って続く。 それに続くのが国書だ。 これは内側に赤いビロードを張った駕籠で、5~60人に担がれていた。 しばらくするとまたあらゆる種類の楽器の奏楽が来て、青い幟を持った騎馬の若者が続く。 それに青い幟を持った30人の人々が続き、黒い繻子の着物を着た副使が駕籠で通る。 しばらくすると鋭い槍を持った約400人の騎士が続く。 これは正使の護衛だ。正使は一行の真ん中を黒い漆塗りの駕籠に乗って進んだ。 その後には同様の供が続き、それから15分ほどすると約200人の日本人護衛が 鉄砲や槍を持って1人ずつ続いた。 その後には使節の供をする日本の領主が乗る8~10挺の乗物が続き、駄馬に乗った 日本の貴族の一行が続いた。 最後に朝鮮人の荷物と贈物を運ぶ駄馬が約1000頭続く。 これらすべてが通り過ぎるのに、約5時間かかったそうだ。 日光へ参詣した朝鮮人自体は214人でも、多数の日本人の護衛も同じように 付いただろうから、これと同じような長い行列が日光まで続いてったんだろうな。り:この時、カピタンのクーケバッケルは先に平戸に帰ってたけど、レイニエルセンと通詞、 それから3人のラッパ手は江戸に残してたんですね。レ:そうだね。 ラッパは日本人には気に入られたらしいけど、朝鮮人の一行の到着が近付いていたためか なかなか平戸へ帰る許可が得られなかった。 平戸候の推測では、将軍は朝鮮人の歓迎の宴会で我々のラッパを 余興に使うつもりだということだった。 でも船の入港が近づいていたので、ラッパ手らを残してクーケバッケルは先に帰ったんだが、 結局平戸候の差配によってラッパ手が宴会の余興に使われることはなかった。り:惜しかったよな~。 うまくすれば、江戸城でオランダ人と朝鮮人の夢のコラボがあったかもしれないのに それで鐘ですが、 現代の日本の寺院で見かける鐘よりは小ぶり。 真ん中らへんにはこんな絵が彫られていたり↓ 下部には銘文が刻まれています。 『東照宮再発見』によると、 【鐘の表面には道教の神や、鶴に乗った仙人と思われる像のレリーフが施されているが、 残念なことに、これらの意味は未だ解明されていない。】 だそうです。申:絵の部分をもっとよく見せろ。 余が解明してやる。り:それがねえ~・・・ この鐘の周りにも柵があって全方面から撮影することができなかったので、 すべての絵をお見せすることができないんです。申:なんだ。 つまらんり:で、これが鐘の上の龍頭の部分ね↓。 この鐘には、見たところ撞木が付いてません。 もしかしたら、日光に着いて1度も鐘を撞いたことがないのかもしれませんね。 さっきもお話ししましたが、これはVOCのスタンド型灯架の隣にあります。 灯架の向かいには参道を挟んでノイツの灯架と回転燈籠があります。 つまり、入口から奥へ進む参道の向かって左手前にノイツの灯架、 奥に回転燈籠があって、向かって右手前にスタンド型灯架、奥に朝鮮鐘があるという 配置なんですが、『日光御宮総絵図』という境内の古絵図にも 同じ場所にこの4つの献上品が描かれているんです。 ただ、この絵図がいつ描かれたのかわからないのが痛いところなんですが、 江戸期のある時期から現代まで4つの献上品は同じ場所に置かれていたとは言えるでしょう。レ:へえ~・・・ あ、ホントだ。 ちっちゃく4つ、ぽつぽつとそれらしいものが描かれているな。り:さて、それじゃ東照宮を奥へ進みますね。 御本殿の前を通過して山道に敷かれた石段をず~っと登っていくと、 奥宮として東照大権現となったイエアスの墓所があります↓。 ここは当然、山内でもっとも神聖な場所ですが、江戸期に東照宮ができる以前から 神聖な霊域だったんじゃないかとわたくしは思っています。 (「史跡探勝路14」参照) ま、それはともかく、これがイエアスの墓↓。 ズ:これが墓なのか? 我々が見た日本人の墓とはだいぶ違っているが・・・り:わたくしの知る限りでは、歴代将軍はみなこのスタイルですね。 将軍正室でもこういうタイプの墓の人がいますが。 イエアスの墓の正面には立派な門があるんですが、その門は閉じられていて 現代の参拝者は脇から上がって墓所の周囲をぐるっと一周するようになってます。 なので、写真も脇から撮るしかないのですが、墓の真ん前にはこういうものがあります↓。 ケ:? よくわからんが・・・り:拡大したのがこれ↓。 手前から燭台・香炉・花瓶で三具足と言われるものです。 反対側から見たのがこちら↓。 これは朝鮮鐘と同じ1643年に献上されました。 申:おお、何と・・・!!り:でも残念ながら、今あるこれは朝鮮国から贈られた本物じゃないんです。 皆さんも日本滞在中に火事を見たり、中には危ないところをどうにか逃れた方もいますが、ケ:ああ、あの時は本当にどうなるかと思ったよ。ズ:私もだ。まさか参府中にあんなことになるとはな・・・金:私は山火事に遭ったんだ!り:日光山内も何度か火災がありましてね。 1812年も終わりというところで、東照宮の別所から火が上がって、 かなりの被害をもたらしたそうです。 その時に、三具足も焼失したそうなんですよ。金:な、なんだと・・・! 我が国王に対して、失礼極まりない!!り:火事なんだからしょうがないでしょ それで献上品を復元したのが現在奥の院にあるものらしいです。 まあ、朝鮮鐘が無傷だっただけでもよかったですよ。 3回の朝鮮通信使参詣のうち、2度目と3度目は公式に東照宮と家光の眠る大猷院への 参詣が行われ、その分立派な奉納品も沢山あったと思われますが、 東照宮の方は焼失したものもあったものの、幸い大猷院の方は結構奉納品が 残っているようで、「明暦元年朝鮮通信使関係資料」として大切に保存されています。 これも写真はここにはお載せできませんが、日光輪王寺境内にある宝物殿で販売している 『日光山と徳川400年の文化』に写真が載っていますので、読者の方は そちらをお求めくださいね。 「日光文化財愛護少年団育成会」様のサイト『わくわく!日光の社寺たんけん』にも 写真がいくつか掲載されてますので、そちらもどうぞ。(リンクはこちら)ツ:? また何か訳のわからないことを・・・り:ぶつぶつ言ってないで、ホラ、これ見て! (と、『日光山と徳川400年の文化』を回覧する)申:この書の朱印は国王印ではないか! ということは・・・り:時の李氏朝鮮第17代国王・孝宗の自筆による御額字(おんがくじ)だそうです。金:は・・・はあああ~~~~!!(←腰ぬけた)り:ぱっと見、とても楽器には見えない品の写真も載ってますが、 10種の朝鮮の楽器も奉納されたそうです。 今ではそのうち、4つしか残っていないようですが。申:御額字の下に見えるこれは・・・祭文(さいもん)か? これも現存しておるのか? 祭文ならば、儀式終了後に燃やすのが通例であろう。り:ところがね、これは日本側の要請によって保存されたんだそうです。 だからこれも歴史的史料として貴重なものですよね。 あとは大猷院の境内に、銅燈籠もあるようですね。 ちょっと今回は銅燈籠のことを知らなかったので、写真の用意がないんですが。金:銅燈籠ともなれば立派な品だろう。 日光には何度も行ってると言いながら、なぜお前はそのことを知らないんだ。 倭人は虚言が得意だから、お前も見栄張って嘘ついてるだけなんじゃないのか?り:あのねえ~・・・ 前回、オランダ燈籠を紹介した時にこんなものゴロゴロしてると言ったでしょう。 大猷院の本殿前には、諸大名から献上された銅燈籠が何基もあるんですよ。 数えてないけど、10基以上はあったよな。 オランダ燈籠は日本の燈籠とは全然違うスタイルだけど、朝鮮からの銅燈籠は 日本の銅燈籠と変わらない格好をしてるんでね。 ぶっちゃけ、目立つもんじゃないんですよ。 この写真の手前側に燈籠群があるんですけどね。 まあ、そうと知ったからには今度撮ってくるつもりですが、 近年になって大猷院も変な風に整備されちゃって、銅燈籠群には近寄れなくなったので わたくしの満足のいくような写真は撮れないだろうな。 なんであんな整備したろう? 宝物館にせよ何にせよ、貴重なる品々を大らかにオープンに惜しみなく見せてくれるのが 日光のいいところだったのに、テンション下がりまくりだぜ・・・ ぶつぶつ・・・ケ:なんか、雲行きが怪しくなってきたな。レ:不機嫌でりりが暴れ出す前に、いっぺん休憩挟みますか。ツ:私、トイレ行ってこようっと<今回の主な参考文献>『平戸オランダ商館の日記』(永積洋子訳/岩波書店)『江戸参府随行記』(ツュンベリー著、高橋文訳/平凡社東洋文庫583)『輪王寺 宝ものがたり』(日光山輪王寺)『日光山と徳川400年の文化』(日光山輪王寺)「江戸東京博物館企画展 日光東照宮と将軍社参」図録(徳川記念財団・江戸東京博物館)『謎と不思議 東照宮再発見』(高藤晴俊/日光東照宮)『長崎のオランダ商館 世界のなかの鎖国日本』(山脇梯二郎/中公新書)にほんブログ村