キリスト教・ユダヤ教に基く欧米の神格化・選民思想と理性の弾圧
理論を巡る無意味な混乱と激しい二面性昨年8月に公開した、宇宙際タイヒミューラー理論を巡る状況に関する報告書で(また[EssLgc]§1.5でも)詳しく解説している通り、・理論の数学的内容は既に多くの数学者によって よく理解されており、・理論の原論文のみならず、その延長線上にある 具体的な計算を纏めた論文も、査読を経て世界的 に有名な数学者たちが編集者を務める学術誌に 既に出版されており、・また新しい応用を見据えた、理論の3種類の新しい ヴァージョンも数名の共同研究者とともに開発中 であり、・理論に対して懐疑的であった欧米の数学者も、 普通に建設的な数学的な議論に応じされすれば、 理論に対する誤解や疑念は、(19世紀の有名な リーマン・ワイエルシュトラスの解析接続を巡る 論争とよく類似していて)現代数学の観点から 見れば至って初等的かつ簡単に払拭できるもの であり、・理論に間違いがあると主張する数学者に対して、 直接的・間接的手段で幾ら連絡を試みても、 主張されている「間違い」の特定に応じてもらえ ない(どころか、メールの返信にも応じてもらえ ない)不思議な状況が続いているにも関わらず、欧米を中心に、理論を巡って全く無意味な混乱が、依然として収まらないことは実に残念である。このような状況の中、昨年は、ヨーロッパの一流大学の教授クラスの先生との交流の機会が増え、こちらとしては、正直なところ、開いた口が塞がらないような、逆に言うと、ある観点から見れば非常に「興味深い」証言が数件(口頭またはメールで)私に寄せられたので、この場を借りて読者の皆さんにご報告したい。これらの証言に登場するA氏・B氏・C氏は、いずれもヨーロッパの世界的に有名な一流大学の年配の教授であり、証言の内容は、宇宙際タイヒミューラー理論に対する否定的な姿勢で有名な、若手の教授Z氏に関するものである。またA氏とB氏は、Z氏と非常に親しくしていて、日常的に交流のある人たちである。・A氏:「自分の周りには、Z氏の主張を真に受ける 数学者はいない。みんな無意味な内容のもので あることはよく分かっているから望月君は安心 したまえ。」・A氏:「本件を巡って、B氏はZ氏を厳しく叱責 した。」(これについては、別の独立な情報源 からも聞いている。)・C氏:「Z氏と少しメールのやりとりをしたが、次 のような印象を受けた。Z氏は怪物等ではなく、 むしろ自分がやってしまったことに対して恐れを なしたような精神状態にあり、告白する相手を 求めているが、残念ながらそのような相手がなか なか見付からない。元々は若気の至りとでも言う べき一時の言動がまさかここまで炎上し、重大な 結果をもたらすとは予測できず、今は子供のよう にただひたすら身を隠しているだけである。」・C氏:「大学の学部長さんに、本件について、 Z氏の'ダチョウ作戦'(=数学的内容と向き合う ことを拒否し、ダチョウのようにただひたすら 頭部=身を隠すこと)等、状況を説明した ところ、学部長の答えは至って単純であった。 つまり、Z氏は謝罪しなければならないねと。」つまり、非公開な状況下では、上記のような証言が、こちらとしては不思議な位に次々とまさに芋づる式に出てくるにも関わらず、公の場では、逆に情報がいつまで経っても一切出てこない。別の言い方をすると、多くの報道機関の報道で描かれているストーリーと全然話が違うではないか、ということである。その意味では、昨年は私にとって、このいわば統合失調症のような激しい二面性、別の言い方をすれば、「認知的不協和」の正体は一体何なんだろうか、度々考えさせられる一年であった。以前のブログ記事や加藤文元著の解説本「宇宙と宇宙をつなぐ数学」の巻頭言でも指摘している通り、数名の数学者の「面子」の問題という側面も確かに絡んでいるようだが、数名の個人の問題だけでなく、欧米社会全体が深く関与している側面もあることは間違いないようである。別の言い方をすれば、数名の個人の「面子」への拘りや、社会的状況に対する「恐怖」とさえ言える状況は、欧米社会の忠実な鏡とも言える。実際、欧米の多くの数学者は、如何なる数学的根拠も存在しない(=もっと具体的に言うと、根拠の提示を幾ら求められても、建設的な数学的な議論に応じることも、メールに返信することすらも、拒否する)にも関わらず、 理論の内容に関する建設的な数学的な議論のみ ならず、理論への言及すら、様々な場面において 禁止するような姿勢をとる傾向があり、そのような体制に協力しない数学者に対しては、職業的不利益処分を含む、(こちらとしてはいろいろな報告を聞くと愕然とするような)嫌がらせをすることがあるようである。また、たとえ現時点では理論の間違いを具体的に指摘することができなくても、 どうせ十分に時間が経ちさえすれば理論に間違い が見付かるに違いないという、数学的根拠が一切存在しない(=逆に言うと、どの確立された数学の定理に対しても、無意味な嫌がらせとして振り向けることが可能な)強烈な信念を持っている数学者が、欧米を中心に多数存在するようである。(この現象については、[EssLgc]1.5.1の「ブードゥー仮説」の話をご参照下さい。)数学的な議論・対話をどんなに辛抱強く呼び掛け、また探し求めても、数学的根拠がいつまで経っても一切提示されない、この「強烈な信念」の正体は一体何なのか。私のこれまでの数々の経験(=口頭・メールでの個人的やりとりの他、英語系メディアやネットの書き込みに見られる論調等)では、欧米の数学者に対して(「欧米 対 非欧米」という方向性の捉え方を誘導するような表現を一切出さないような形をとった場合でも)このような話題を向けると、非常に高い確率で「欧米 対 非欧米の日本」という構図に基く言論が返ってくる。つまり、簡単に要約すると、 理論が正しい上に、超エリートとされる若手の 教授から理論の間違いとして指摘されたものが、 実は大学院レベル(=日本で言うと修士課程 レベル)の簡単な初等的な誤解でしかないという ことになれば、神様によって選ばれた民(= 「選民」=一種の「神格化」)である欧米人、 つまり神様が(非欧米の人々と比べて)圧倒的に 一番愛しているはずの欧米人との約束を、余りに も激しく残酷な形で神様が裏切ったことになり、 それだけは断じてあり得ないし、容認できない、 考えられない、信じられないといわんばかりの態度である。宗教と癒着した欧米社会の権力構造欧米社会における宗教(=キリスト教・ユダヤ教)と、「欧米 対 非欧米」という人種・民族に基く権力構造の癒着ぶりは、世界史において非常によく知られたテーマであるが、最近の動向を踏まえた簡単な要約をすると、次のような事例が頭に浮かぶ:・米国という国の建国は、そもそも、人権や民主 主義的原理・価値観のような考え方とは対極に あるような数々の行為による ・先住民からの土地の収奪と ・奴隷制度 の上に成り立っている。後者を巡る米国社会の 数々の矛盾に関しては、 ・奴隷を解放した場合、合衆国から国外追放する しかないと主張しながら、 ・自身が所有した数百人の奴隷のうちの一人で あった、若い女性の奴隷との間に、現在も多数 の子孫が存在する子供を設けた 建国の父の一人であり、また米国の独立宣言の 著者でもあるジェファーソン氏がまさに象徴的で ある。このような状況の背景に、聖書では奴隷 制度は事実上、容認・擁護されているという事実 があると思われることが度々指摘されている。・奴隷制度を巡っては、(子供の頃、米国南部の テキサス州で5年間過ごしたことがある)私でさえ も昨年聞いて驚いたが、現在も、次のような動き が続いているようである: ・米国共和党の背後にある原理主義的キリスト 教系勢力は、米国憲法の廃止や、奴隷制度の 復活を主張している。 ・イギリスの与党系国会議員も奴隷制度の復活を 主張している。 ・米国の大統領候補の一人が、奴隷制度を好意的 に捉えている米国国民に対する、いわゆる 「ドッグ・ホイッスル」として、南北戦争の 原因を聞かれた際に、奴隷制度への言及を 避けた。 この大統領候補の発言に関連して、米国社会で は、人種・民族に基く一種のカースト制度を更に 強化し、次世代まで引き継ぎ、固定するための 動きが益々活発になっていると指摘する人も いる。・興味深いことに、1930年代の米国では、(大手 自動車メーカーの創設者である)フォード氏が、 反ユダヤ的内容の「ベストセラー」の本を出版 し、ドイツのヒトラーら、ナチス党員から、自分 たちの運動の原動力となったとして大変な賞賛 を受けた。当時の米国の有名な飛行家のリンド バーグ氏も同様な思想を持っていたようである。 また、米国の当時の大統領の友人等、20数名の 国会議員を含む勢力が、米国政府を転覆し、 代わりにナチス系の政権を樹立するための工作 活動を行ない、当時の米国では大変な騒ぎを 起こした。この状況は危うく隠ぺいされるところ であったが、当時の数名の関係者の大変な尽力に よって記録は何とか保存され、また後に公開 されることになった。明示的な歴史的な記録を 残すことの重要性については、本ブログでも、 [EssLgc]§1.5でも度々強調している。・欧米、特に米国とイスラエルの(いわゆる「神聖 牛」扱いに基く)特別な関係にも、「宗教との 癒着」や入植者の「先住民からの土地の収奪」 というテーマが深く影響しているようである。 このように解説しているチョムスキー氏も、 決してユダヤ人と対立している立場の人間では なく、自分自身ユダヤ系であるが、同じユダヤ・ イスラエル側からすればインサイダー中のイン サイダーであるはずの、(ダビデとゴリアテとの 類似性を語る)ユダヤ人入植者や、イスラエルの 大物政治家・軍人の息子といったような立場に ある方々の証言(=パレスチナの占領を、一種 の「アパルトヘイト制度」として厳しく批判する 主旨の証言)も実に興味深い。これらのテーマはいずれにしてもよく知られているテーマであり、また私の学問的専門でもないため、ここで詳しく解説するつもりはないが、より詳細な(英語の)解説については、上記の数々のリンクのビデオをお勧めしたい。欧米社会における宗教と、理性の弾圧宇宙際タイヒミューラー理論を巡る状況について解説するとき、よく強調するのは(数学雑誌PRIMSの出版元である)EMS(=ヨーロッパ数学界)の行動規範「COP」に記された「著者の責任」の第6項目 「数学者は、新しい定理を証明した、あるい は特定の数学的問題を解決したとする、公 の主張を行なった場合、主張を証明する 詳細な議論を、時宜に適った形で公表する 義務を負っている」である。つまり、この項目を忠実に遵守するような姿勢で関係者たちが行動していれば、宇宙際タイヒミューラー理論を巡る混乱は発生する必然性は全くなく、 数学者同士の間の、友好的かつ建設的な数学的 議論・対話、つまり、通常の学問的活動の実践 によって、如何なる混乱・誤解・疑念の類も、簡単に解消することが可能であるということである。以前のブログ記事や[EssLgc]§1.5, §1.10, §1.12等でも解説している通り、このような姿勢は、基本的な民主主義的原理である ・法の支配 ・法の適正手続の保障、 ・立証責任等とも深く関係している。一方で、強烈な宗教的信念と癒着した、欧米社会における悪質な権力構造が、学問的活動における基本的民主主義的原理や理性の追求を阻害しているとすれば、その阻害の仕組みの解明を進め、阻害を克服するための方策を講じたくなるが、欧米社会における ・学問のあるべき姿、 ・強烈な宗教的信念、それから ・悪質な権力構造という三つの要素が交錯する「現場」が他に存在するとすれば、場合によっては参考になる有意義なヒント・道標を与え得るものとして、自然な関心の対象として浮上する。その「他の現場」として最も代表的なものの一つとして考えられるのは、欧米における、いわゆる聖書学(=聖書のテキストや、古代キリスト教・ユダヤ教の研究)の現場である。私自身、十代の頃、ラテン語や古代ギリシャ語の勉強に大変な関心を持ち、また相当の時間と労力を費やした。この地中海地域の古代言語の勉強は、聖書学に学問的に非常に近い分野であり、実際、聖書学の学者は必ずギリシャ語やヘブライ語、アッシリア語等について深い知識を持っている。昨年は、上で述べたような考察から、(自分自身、ラテン語や古代ギリシャ語を、大変な熱意をもって勉強していた時代を懐かしく思い出しながら)最近の聖書学を巡る状況に関する数々のビデオを閲覧し、まさに不思議な位に、 様々な側面において宇宙際タイヒミューラー 理論を巡る状況と酷似した状況の下で、学界 の悪質な権力構造や、理性や数学的論理と矛盾 する強烈な信念の持ち主たちと格闘しながら、 理性や数学的論理・学問的対話等を重視し、 (いわゆる拳を振り上げるような、「喧嘩腰」 の姿勢ではなく)大らかな、愛に満ちた姿勢で 学問的活動に勤しむ学者たちの姿に感動したため、この場を借りて読者の皆さんにご報告したい:・まず、「悪質な権力構造」との対立の発端と なった学問的内容であるが、大きなテーマと しては、次のようなものが挙げられる: ・聖書は人間によって作られたものであり、 古代の著作物としてはとても優秀である ものの、論理的矛盾や、近代的な倫理観と 相容れない内容が多く、不完全な文学として 捉えるべきものであり、「神様」のような 超自然的な「エンティティ」の言葉として 捉えるべきものではない。 ・キリスト教において神格化の対象となるキリ ストという人物だが、そもそも、キリストは、 他の著名な古代人と違って、実在した証拠が (貧弱過ぎるというより)皆無に等しく、 実在しなかった可能性が極めて濃厚である。 興味深いことに、モーゼについては同様な 「神話論」(=つまり、実在しなかった架空 の人物であるとする学説)は既に学界では ある程度広く受け入れられているようである。 ・実際、古代においても、聖書に書かれた物語 は、一般大衆向けのものに過ぎず、宗教の 中核的な関係者たちの間では、それら物語は ただの抽象的な比喩・寓喩として捉えるべき であるという考え方があったようである。 ・また古代においても、キリストは架空の人物に 過ぎないと主張する「神話論者」の宗派も存在 したようである。・上記のような学問的内容を解明する活動に おいて、 ・理性、 ・真実や論理的整合性の追求(=つまり、「嘘」 を吐き続けなければならないという重圧からの 解放)、それから ・数学や数学的論理 の重要性が度々強調されたことも実に興味深い。 また、聖書の宗教的解釈の様々な問題点が解明 できても、それによって聖書が別に負の感情の 対象になるわけではなく、むしろ、古代人の文学 として捉えることによって古代人の本当の考えに より忠実に寄り添うことができるようになった ことを、学者たちはとても喜ばしく思っている。 これはまさに学問のあるべき姿である。・一方で、上記のような学問的内容を追求するに 当たって、 ・教授職の劣悪な労働条件を嘆いたり、 ・キリスト教の主張と相容れない主張をすること によって職業的な不利益処分(=解雇等!)の 対象となる危険性を心配したり、 ・面子に拘る否定派の学者たちと対立したり、 ・議論の途中のメールの返信拒否や、提示されて いる議論とまともに向き合うことを拒否する 等、また面子に拘る余り、脅迫めいた行動に 出る等、否定派の様々な厄介な言動に悩まされ たり、 ・綿密な調査の上、理解者のリストを作成し たり、 ・様々な「認知的不協和」を解消するための唯一 の方法として、対話の重要性を強調したり する等、実に不思議な位に、宇宙際タイヒミュー ラー理論を巡る状況を連想させられる、聖書学の 学者たちの証言がとても印象的であった。宇宙際タイヒミューラー理論も、決して様々な既存の数学の研究と対立する必然性はなく、[EssLgc]の ・§1.5の解析接続に関する部分、 ・§1.11の「豊富な相互関連性」に関する部分、 それから ・§1.12の遠アーベル的アデール解析に関する 部分、また[Alien]§4.1でも再三にわたり強調している通り、宇宙際タイヒミューラー理論は、様々な古典的な数学の理論と深い関係性を有している理論である。最後に、昨年印象に残った「一言」として引用したいのは、国際政治学者のイアン・ブレマー氏の、(偶々東京で行なわれた)2023年を振り返る講演の中で、講演の最後辺りに述べたことである。それはつまり、日本の世界における存在意義は、米国をはじめ、欧米と同じ民主主義的価値観(=上でも言及した、「法の支配」等)を共有しながら、その価値観の旗手を自任する姿勢をとっているにも関わらず実際にはその価値観と矛盾するような言動を連発する米国とは対照的に、その価値観をただ素直に、実直に堅持する、日本の揺るぎない姿勢にあると。本ブログでも、だいぶ前から(=ブレマー氏とは完全に独立に)、日本が世界の舞台において果たすべき役割として私が指摘している役割と、また不思議な位に、同じ方向性を向いている位置付けである。