テーマ:生き方上手(657)
カテゴリ:一日一言
*ここから引用*
生きるのだ。生きることが仏法なのだ。 どう生き、どう死ぬか、それを知ることが 仏法なのだ。人間らしく生きる、ただそれ だけでいいのだ。仏法には別に子細はない のだ。生活を離れて仏法はないのだと、わ たしは声を大きくして言おう。 *ここまで引用* 致知出版社『坂村真民一日一言』より、感謝します。 経済的自立をしていなければ生きる資格がないのか? 日常動作が自立していなければ生きる資格がなのか? 障がいや難病・持病をもつ方々と 身近に係わるようになって以来 自己選択・自己決定さえできれば 自分らしく生きられるかも知れないと思うようになりました。 経済面でも日常動作面でも自立している人が ある日突然 心や体の健康を害するとか 経済面や日常動作面での自立が不可能になるとか そのような現実に直面すると、 今まで当たり前だと思っていたことが 当たり前ではなかったという事実をつきつけられます。 仕事もお金も能力もすべてを失うと、 事実上赤ちゃん同様の状態になりますが、 赤ちゃんは愛され 大人は嫌厭されます。 この場合 赤ちゃんの方が愛される最大の理由は 社交的で素直で率直な 非言語コミュニケーションの優越性だと思います。 体じゅうのどこか一部分さえ動かせれば PCを使って言語コミュニケーションが可能です。 PC無しでも 五十音の文字盤や音声五十音による 言語コミュニケーションができます。 表情筋を働かせれば・・・ 表情筋が動かなくても目の表情を働かせれば 最小限のコミュニケーションが可能です。 赤ちゃんは教えられなくても 非言語コミュニケーションに長けていますが、 言語コミュニケーションに依存しながら 数十年を生きてしまった大人の場合は 意識的に分かりやすい非言語コミュニケーションを 身につける必要があります。 今までのところ 難病にも持病にも障がいにも縁が薄い私ですが、 私同様 健康な健常者だからといって 非言語コミュニケーションを疎かにはできません。 言語を使う時も使わない時も 分かりやすいコミュニケーションを意識すると 今より少しだけ生活しやすくなるかも知れません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.07.22 01:15:44
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