2002FIFAワールドカップ10周年記念トークショー(3)
個人的なメモをもとに内容を書き起こしました。文章化する際に、実際の表現と若干変えている部分があります。●2002年日韓W杯が残したもの大住 素晴らしいスタジアム、日本代表そしてJリーグの成長についてどう考えるか小倉 たとえば、サッカー不毛の地といわれていた新潟にビッグスワンができたコンフェデレーションズカップとW杯の開催、アルビレックス新潟が人気チームになっている新しいスタジアム、当初は芝の管理に問題があったが、各会場の努力で素晴らしいピッチに宮本 サッカー専用スタジアムが増え、座席の規模や音の反響なども向上した大分のスタジアムのロッカールームには、カメルーン代表のサインが残っていたり・・・ただ、世界にはもっとレベルの高いスタジアムがある小倉 2002年のために建設したスタジアムは、現在の基準ではW杯開催基準に合格できない単に試合を観るだけでなく、食事や休憩など観客を楽しませる施設が求められているこれから日本のスタジアムをどう変えていくか考えるのも私たちの仕事上川 2002年からスペシャルレフェリー制度がスタートプロの試合はやはり専門のプロのレフェリーが担当すべきという発想からレフェリーとしての収入で生計をたてるプロが誕生したレフェリーで生活するなど考えてもいなかったが、チャレンジしがいがある現在プロの主審が10名、副審が3名、私は指導者の立場に小倉 Jリーグは試合数が多く、副業として審判をお願いするケースがほとんどプロの審判を育成しなければプロの主審のうち国際主審は7名、エリートの中でも上のカテゴリーにいるアジアでも評価されている●10年がたち、日本サッカーのこれから小倉 2002年を経て、日本の多くの人たちがサッカーの楽しさを知ったJリーグを見る目も厳しくなった外国の人たちが日本を評価するようになったFIFAの理事に立候補したとき、多くの人から「日韓大会はよかった、楽しかった」と宮本 オーガナイズが評価されている、というのは選手として知っていたパニックになりそうな時にも抑えることができる国民性があるのかな、と大住 巨大化、商業化を続けるW杯 その中で、2002年に日韓両国の人々が笑顔とホスピタリティで世界中からのサポーターを迎えたことがインパクトを与えた小倉 ベッケンバウアーが2006年ドイツW杯のシンボルマークをニコニコマークにした2010年南アフリカ大会でも、何が足りなくてもホスピタリティでは負けるな、が合言葉にまた、2002年W杯で忘れられないのは、日韓両国のファン(fans of Korea/Japan)がFIFAから表彰されたこと、W杯では初のことだった上川 日本サッカーが今後も飛躍できるよう、審判も成長しなければ多くの方が審判に興味を持ってくださるようになったことを大切に裏方として、日本サッカーが世界のトップ10になれるよう支えていきたい宮本 選手生活を送る上で、2002年の経験は大きな影響を与えた秋からはFIFAマスターに行ってサッカー以外のことも学ぶ予定これから学ぶものも加えて、(裏方として)成長していきたい小倉 宮本君には協会入りを期待している私は年なのでそろそろ引退して海外移住したいwでも、W杯から10年たち日本にサッカーが根づいてきたのでまだしばらくは・・・今はU-20女子W杯の開催を成功させたい●質疑応答Q アジアカップのPK位置の交渉は、他の選手とも相談したのか?宮本 誰とも相談していない 主審と話すときも、たぶん聞き入れてくれないと思っていたとにかくヨルダンの選手が蹴るまでに時間を置きたかった 勝つために必死だった他の選手や監督コーチには伝えきれなかったジーコはたぶん「変えるな」と言っていたし現場は混乱していたと思うQ Jリーグとヨーロッパ、地域密着度の違いについて小倉 10チームでスタートしたJリーグ、今は40チームに成長まだまだ観客が少ないなど問題は多いが、各チームの裏方が努力しているQ レフェリーとして試合に臨む上での心構えは?上川 いかに選手に気持ちよくプレーしてもらうか、を考えるそのためには、プレーの近くで判定してあげることだから、日頃からのトレーニング、体調管理、ルールの勉強が欠かせない自信と責任をもってサポートすること、選手といいコミュニケーションをとりながらレフェリングすることが大切