カテゴリ:本
ドイツでは食料品はかなり安いのに、本と下着はやたらに高い。
たとえば純生クリーム200mlは安いもの(十分おいしい)だと50円以下で買えるけれど、ハードカバーの小説は2000円から4000円、新書判になると1200円から1500円で買える。だから新刊の小説はすぐには買わずに、新書判になるまで二、三年待つ方が経済的ではある。 それでも誘惑に勝てなくて、雑誌「シュピーゲル」の書評で誉められていた、新刊の小悦を二冊買ってしまった。一冊はドイツ人女性のもの、もう一冊はアイルランド人が書いた本(ドイツ語訳を購入)。 前にも書いたことがあるけれど、読んでいる間はワクワク、ハラハラ、ドキドキし、話の展開を知りたくて、眠るのも忘れて読みつづけるくせに、最後の一文を読み終わったときに、いつも一瞬、むなしい気分を味わう。 この話はすべて作り話なのだ。誰かがパソコンの前で、あるいは白い紙の前で、考え、考え、一つ一つの言葉を吟味し、想像力と創造力を投入して書いた、架空の話だったのだという事実を突きつけられる気分。 それまで頭の中で生きていた登場人物たちの姿がかすんで消えていく。 これらの登場人物は存在などしていないのだから。 不思議なのは、本を読んでいる間、読み終わる前までは、登場人物はわたしの頭の中で生きているということ。 テレビのドラマや映画も同じだ。 わたしたちは、ドラマや映画が俳優によって演じられていると知っているのに、これらを見ている間は、まるで登場人物が本当に存在し、本当にドラマの中でのような生活をしているかのような錯覚に陥って、主人公の人生がどうなるかなど、本気で心配したり、同情したりしてしまう。 ある時、撮影現場の風景を並行して見せながら、ドラマが進行する番組があった、つまり作り話であることを常に見せながら話が進んだのだが、それでも見ている者は、ドラマの成り行きにひたってしまう。 どうやら、人間の頭は、目の前に見せられる光景や本などで読む話を、いわば反射的にそのまま認知する傾向があるようだ。「理性」が「これはフィクションだよ、嘘の話だよ」と知っていても、感性は目の前で演じられている光景や小説で描かれている出来事を、見せられるままに受け取ってしまうのだ。 小説が「私小説」だったり、自伝的な小説とされている場合は、読後感のむなしさが少ない。 読んだ話は作り話ではなくて、多少なりとも本当に誰かが経験したことだと思うと、安心したりして、、、。 じゃあ、ノンフィクションとか自伝ばかり読めばよいではないかと思うけれど、実際には、目の前に新刊書、新しい作り話が並ぶと、どうしても読みたくなる。 そういえば、知人(ドイツ人、日本人を問わず)の中には小説のようなフィクションはほとんど読まず、趣味の本とか実用書、ルポなど、ノンフィクションばかりを読む人もかなりいる。 こういう人は最初から、フィクションの読後感のむなしさを知っているんだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016/09/22 11:27:40 PM
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