「早いもので休止して半年も経ちました」 時々、内緒で皆様のブログを徘徊しておりますが、時々、わたしの近況をお訊 ねの書き込みを頂き恐縮しております。ご返事もせず申し訳ありません。 なかにはブログをお止めになった方も居られるようですね。 わたしは元気に過ごしております。先月に原稿用紙で700枚を越えまして 現在は最初から、推敲をあらたに進めている最中です。 なんせ、応募するには枚数制限がありまして、最も長編でも800枚が制限 枚数です。書き終えた原稿を削る作業は身を切られるような心境です。 このように描きたいと思って書いたもので愛着と同時に、どれも、わたしには 大切に感じられ、思いきった削除が出来ません。 何度も最初から読み直しダブったような文章、冗漫な部分を削除して進めてお りますが、思ったように進める事は困難です。改行を出来るだけ止めておりま すが、それを余り進めると文章が読みづらく、小説として興味を削がれる感じが 否めません。改て小説の奥深さを思い知らされております。 さて愚痴はこれまでにし、本当に季節の移ろいは早いものですね。 年賀状も発売されました、あっと言う間に年末となりそうです。 「秋祭り 町内太鼓が 練り歩く」 昨日は天候が不順でしたが我が町内の秋祭りでした。子供達が「わっしょい」 と大声で家々の前を威勢よく、練り歩いておりました。 それに引きかえ、わたしは年々と年老い女性への関心が薄らぎ胸の時めきを 失っております。淋しいことですね。 もう一踏ん張りしたいものです。 ・・・どうか皆さんも頑張って良い年末をお迎え下さい。近況まで。 龍
「お元気ですか」 ブログを休止して早いもので、もう一ケ月ちかくになりました。 毎日、充実した日々を過ごしております。 午前中は近所を散策し、季節の移ろいを感じております。 我家の孟宗竹も見る見る新竹が伸びて、そろそろ手入れをしなければ 思っております。 小説の方も順調に進んでおります、既に原稿用紙240枚に達しました。 一日、9枚をノルマとして書いておりますが、思い切って省く作業に手間取って まだ、冗漫な部分が多く残っております。 それに転換ミス、誤字、脱字、何度も読み返しておりますが、こうしたミスが 目立ちます。 暫くワープロを使わなかった所為か、もとの感覚に戻るまで苦労しました。 主人公の匂いを文章から読み取っていただく、ここにも苦労があります。 同じ表現を何度も繰り返すことは出来ません、改めて小説の奥深さを実感して います。 「女ほど面倒なものはない、酒もそうじゃ。だが、無くては困る」 こんな表現を考えるのに、一日もかかっております。 才能がないということを、思い知らされております。 また皆さんのプログへは、内緒で徘徊しておりコメントを残すことが出来ません が、いま暫くご堪忍下さい。 これから本格的な梅雨を迎えますが、御身大切にご自愛下さい。 とりあえず近況報告まで。
「「日差し浴び 初夏の景色に 若葉冴え」 思うところがありまして、このプログを暫く休止させて頂きます。 本当に長い間、お世話になりました。 皆さまのお蔭で五年間も、このプログを続けることが出来、心から 感謝を申しあげます。短編、長編作を何編も掲載でき、こんな幸せは ありませんでした。暫くと言っても半年以上はかかるでしょう。 昨日から、ワープロで小説を書いております。これが新しい挑戦と考えて おります。これが終るまでの期間、休止いたします。 不器用なわたしはプログと平行して進めることが出来ません。 ですから下手な朝のご挨拶も、これでお仕舞いにいたします。 これからは時々、時間の許す範囲で内緒で皆さまのブログを拝見に参り ます。時にはコメントも残そうと思っております。 これから梅雨に入りますが、どうかお体にはご自愛下さい。 本当に有難うございました。名残惜しく感じます。 なお、このプログはこのまま残して置こうと考えております。 再び、お逢いすることを楽しみにしております。 龍5777
「織田信長を考える」(最終回) 信長の考案した方面軍制度は、画期的な成果を現していた。 だが、それは信長にとり諸刃の剣であった。 あの武田信玄でさえ、甲斐を治め信濃攻略を終え、念願の駿河を手に するのに二十数年の年月を要している。しかも自ら陣頭にたっての結果で あった。それに比べ、信長は安土城から各軍団に命令指示を与え戦果を拡大 していた。それぞれの軍団長は自分の直属部隊に、信長から与えられた与力 大名の兵を傘下とし、二万から三万の軍勢を擁している。 これは一昔の有力戦国大名に匹敵する大兵力である。信長から見れば自分 の配下であるが、方面軍の中では軍団長は主人に等しい権限を有していたの だ。それだけに信長は彼等の扱いを慎重にしなければならなかったが、信長は そうした配慮の一欠けらも見せなかった。 天正八年一月には、播磨の別所長治の三木城を羽柴秀吉は兵糧攻めで 長治を自害に追い込んで攻略していた。有名な「三木の干殺し」である。 三月には五年間も続いた石山本願寺が、正親町天皇の調停を受け信長の 和睦を受け入れ、四月九日に顕如は本願寺から紀伊雑賀の鷺の森に退去し、 それに反対した新門跡の顕如の子、教如も七月に信長と誓紙を交わし雑賀に 去った。その際、本願寺から火が揚がり三日間にわたって燃え続け全てが 灰燼に帰したのだ。十一月には北陸方面軍の柴田勝家が加賀一向衆を鎮圧し 首謀者、十九人の首級を安土に送っている。 こうして信長は念願の古い権威の象徴であった、一向一揆を全て鎮圧した。 まさに武装教権の最後であった。話は前後するが信長は八月に織田家の 諸将等が戦慄することを実行したのだ。まさに青天の霹靂であった。 信長はわざわざ大阪に出向いて、自筆の十九条の折檻状を宿老の佐久間 信盛親子に突きつけ、追放を申し渡したのだ。 佐久間信盛は、弘治二年の信長の弟の信行擁立事件の時から、首謀者の 柴田勝家に対抗し信長を支持してきた歴代の重臣であった。 その宿老を石山本願寺を五年間も落とせなかったという理由のみでで追放す るとは、余りにも非道すぎる処置であった。 宗教戦争ともいうべき戦いに勝てなかったとはいえども、それは信長の所為 であり、非を老臣に押しつけるとは、家臣への情も人の心も無視した態度であ る。佐久間親子は取るものも取りあえず高野山に登ったが、さらに追いうちを かけるように、高野の住まいも許さぬと云われ、二人は紀伊熊野の奥に逐電し 翌年の七月に大和十津川で信盛は死亡した。 歴代の功臣と云えども、臣下は臣下、今の信長に益をもたらせない者は一人 もいらぬ。そうした苛酷な行動に家臣一同は震いあがり戦慄した。 こうした処罰を終え京に戻り、佐久間より上席家老の林佐渡をも追放したの だ。理由は弘治二年の信行事件に、連座した科であった。これには佐久間の 追放を諫言した罪もあった。その追放劇は林佐渡だけでなく、安藤伊賀守父 子、丹羽右近の二人にもおよんだのだ。 その訳は甲斐の武田勝頼の攻略と、中国攻めに対する組織の締め付けを 目論んだ処置であったようだが、結果的に信長は大いなる失敗をしたのだ。 天下を制覇するということは、味方を広げることであるが、側近中の側近で 信長の幼少時代から自分につくしてくれた老臣までも敵にするようでは、天下 制覇なぞ望むべくもない。信長はこうしたことで遣れると判断したようだが、 人間とし無知であり、極端なほど自信過剰に陥っていたようだ。この事が結果 的に信長の運命を塞ぐことになるのだ。 あれだけ先見眼をもち、革新的な施策を持った男が部下の心理を見透かす ことが出来ないことが不思議である。生まれついての殿さまはやはり、そうした 者なのか、そうは考えても、武田信玄や上杉謙信等は家臣の配慮に気配りし、 その為に家臣は絶対的に忠誠を誓っていた。 方面軍団長で織田家の譜代でない武将達の心境は、どうであったのか。 こうした信長への不審感は、織田家の諸将等になにをもたらしたというのか。 非道な主人で云うなれば覇王である、何時なんどき自分の身に降りかかるか 疑心暗鬼となった事は推測に値する。そうした感情を心の底に鬱積させた武将 等は、信長への忠誠心を薄れさせ、ただ命令に忠実たらんと思うことは当然の 事であろう。それは言葉を変えれば、織田家への忠誠心も薄まることであった。 こうして運命の天正十年を迎えることになる。 三月二日、信長の嫡男信忠が信濃伊那郡の高遠城を攻め、城主で勝頼の 弟の仁科盛信が自害した。これを知った勝頼は篭城戦を断念し、完成まもない 新府城に火を放ち、小山田信茂の岩殿城へと逃亡した。 だが小山田の裏切りで天目山へと避難中に、織田勢の滝川一益の軍勢に 包囲され、田野の地で一族郎党四十名と自刃して果てた。 こうして平安末期から甲斐を支配してきた武田家は滅亡した。 信長は駿河一国を徳川家康に与え、信濃、西上野を滝川一益に分与した。 家康は駿河を貰った礼として、安土を訪れていた。その接待役を明智光秀 に命じた信長は、光秀の接待が気に入らず、秀吉の中国遠征軍への参加を 命じられた。その上、毛利の領土である石見、出雲の二カ国をあたえ丹波、 近江を召し上げるとの上意を受けた。 「来るものが来た」と、光秀は思ったに違いない。 自分が松永久秀や荒木村重、佐久間信盛、林佐渡と一線に並んだと光秀は 実感したのだ。こうして六月二日の運命の日を迎えることになる。 京の本能寺に宿泊した信長は、明智光秀の軍勢に急襲され、四十九年の 生涯を閉じることになる。ここで信長の天下布武の覇業は一挙に挫折した。 余りにも人間という生き物の心を知らなかった男の生涯である。 「織田が搗き 羽柴がこねし天下餅 骨も折らずに食らう徳川」 こうした狂歌がある。筆者はそうだとは思わない、信長は乱れた天下を 治めようとしたのではない。彼は新しい原則による天下統一を考えていたの だ。たが人々は信長の革命を望まなかった、戦乱に疲れたきった人々は、 泰平の世を求めた。秀吉がそれに応じ、家康が秩序ある世界を創造したの だ。そうした天下が出来たことは、信長の人を知らない無知にあったと考える。 普通の大名家ならば光秀を破った秀吉も、織田家の忠臣となり天下を望むよ うな事をしなかったであろうが、彼には心底から信長と織田家への忠誠心が無 かったと筆者は考える。 信長の死は織田家の、家臣の頭上から覇者の重石を取り除いたのだ。 今こそ主人に代って天下を取る、そうした空気となったのではなかろうか、 事実、秀吉にも勝家にも天下を望むだけの軍事力を擁していた。 清州会談などは、織田家の天下簒奪を目論む会談に見えてくるのは筆者 一人であろうか。 完
「織田信長を考える」(二十六) その頃、ようやく志摩の波切で七隻の甲鉄船が勢ぞろいしていた。 これが信長が毛利水軍に対抗しようと建造させた甲鉄船であった。 この船には大鉄砲(大砲)三門が搭載されててた。今でいうなら戦艦であろう。 この歳の六月に甲鉄船七隻は、熊野灘に押し出し、大阪表へと出港した。 率いるは九鬼水軍の九鬼嘉隆である。十一月に甲鉄船は木津河河口に到着 した。ここに石山本願寺の警護船、五百隻が迎撃してきた。 「九鬼嘉隆殿、敵船を寄せ付け愛し候ふ様に持なし、敵船あまた打ち崩し候」 信長公紀にはこう書かれている。この敗北で本願寺は強力な九鬼水軍に 手が出せない状況となった。海戦後に七隻は堺に入港した。 イエズス会の宣教師、オルガンティノは、この甲鉄船を見てこう語った。 「こんな船はヨーロッパでも見たことはない」と驚嘆したという。 秋に毛利水軍、六百隻が本願寺救援にやってきた。四時間の海戦で甲鉄船 は敵の船を引き寄せ、旗艦とおぼしき船に大鉄砲の一斉射撃で粉砕した。 毛利水軍の得意な焙烙火矢もなんの効果もなかった。こうして毛利水軍は なすべくもなく破れさった。この甲鉄船と大鉄砲の併用は、信長の革新的な 戦略であった。あの長篠合戦で日本最強といわれた武田騎馬隊を鉄砲の 大量投入で壊滅させた、システム発想と同じ方法あった。 村上水軍の寄せ集めの毛利水軍は、武田騎馬隊と同じくばらばらに戦い、 そして壊滅したのだ。 鉄砲や甲鉄船による革新戦略は、何よりも信長の先見眼であった。 焙烙火矢に弱いならば、火に強い船を作れば良い、そうした発想で不可能 を可能にする考えを常に信長は持っていたのだ。 後年、豊臣秀吉が行った朝鮮出兵時、朝鮮の全羅左道水軍の亀甲船に日本 の水軍は各地で破れ、補給物資の欠乏を見ることになるが、第二次朝鮮出兵 でも秀吉は、日本水軍の増強をなにもをやってない、もしは禁句であるが信長 存命ならば必ず、朝鮮水軍に対抗しうる水軍の創設を図ったと思われる。 こう考えると信長の革命児としての能力の一旦を窺がい見ることが出来る。 この海戦以後、信長方の海上封鎖はより徹底し、本願寺は窮地に陥ってゆ く。これと同時進行で有岡城の攻撃が熾烈をおび、遂に荒木村重は嫡男の村 安と尼崎城に落ち延びてゆくが、村重一族三十名が京の六条河原で処刑され た。尼崎では従者五百名が焼殺された、これを命じられた武将が滝川一益 である。村重は十二月に花隈城に移るが、これも落城し毛利家を頼って落ち 延びた。この時期を境とし、信長の天下布武は更に激しさを増して行くのだ。 翌年の六月二日、丹波攻略を指揮していた明智光秀が八上城の波多野兄弟 を降伏させた。光秀は前年の三月に丹波に攻め込み、八上城を包囲した。 そんな時期に荒木村重の謀反が発覚し、光秀は一部の兵を残し摂津へと向 かった。 そして十二月に再び丹波に入った光秀は、厳重な包囲網を構築したのだ。 籠城も長期に渡ると兵糧が欠乏し、城内に餓死者が続出する。 光秀は波多野兄弟の命を保証する意味で、自分の母親を波多野城に人質と して差出、波多野秀治、秀尚兄弟を伴って安土城へと護送した。 信長は光秀の取り成しにも係わらず、これまでの波多野兄弟の裏切行為を 責め両人を磔とした。 その処刑に怒った八上城の城兵は光秀の母を磔としたのだ。 ここでも信長の苛烈な処罰が行われたのだ。さぞ光秀も臍を噛んだであろう。 それでも光秀は丹波攻略に専念し、八月には黒井城、ついで丹後の弓木城 の一色義有と講和をし、十月二十四日に丹波、丹後の制圧を信長に報告 した。その効により、明智光秀は翌年の八月に丹波一国を与えなれた。 光秀にとり、何とも形容できない抜擢であったであろう。 その頃、信長は征服地の、領主や国人に指出(さしだし)を命じていた。 これは単なる土地の検地ではなく、百姓、一人一人に至るまで調べあげる 徹底的な方法であった。それは兵農分離の前提としてのものであった。 征服地の領主、国人からいったん土地を取りあげ、改めてと知行制で給付 して年貢を取り立てる者と、取り立てられる者を明確としたのだ。 こうして専用武士団を土地から、切り離したのだ。 更に信長は世界で五十年から百年前をゆく兵制改革を考えていた。 それが現在の方面軍組織の確立であった。 東部戦線の軍団長は、上野の滝川一益。北部戦線の軍団長は柴田勝家。 西部戦線の軍団長は、備中の羽柴秀吉。畿内には織田信孝、丹羽長秀。 阿波の軍団長は、三好康長。近畿、山陰の軍団長には、明智光秀。 こうした中でも、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、滝川一益、羽柴秀吉 の五人が、織田家の中枢の軍団長と評価されていた。 この五人のうち織田家譜代の軍団長は、柴田勝家と丹羽長秀の二人だけで ある。彼等五人の方面軍司令官は、信長側近の秘書や官吏と連絡を取りなが ら使命を果たすことになった。 この組織こそが信長の信長たる、革新的な最後の施策となるのだ。 だが信長は、余りにもそれを徹底しすぎ、自分の直属部隊を置かずに、 方面軍に廻したために、墓穴を掘ることとなるのだ。 最終回に続く
「織田信長を考える」(二十五) この時期、信長が最も恐れた男は上杉謙信であった。彼は三国峠を越え、 関東に乱入し、関東の国人や大名の軍勢を加え総勢十万名という大軍で 小田原城を包囲したことがある。 幸いに今回は引きあげたが、関東から上洛の軍を起こせば信長はひとたまり もあるまい。あの信玄でさえ三万余の軍勢で上洛を計ったのだ。 今度は謙信は必ず関東の諸大名を引き連れ、上洛してくるであろう。 幸いにも今回は帰国し、上洛軍を発するのは来年の雪解けまで待たねばな るまい。その前に天下布武を急ぐ、信長は羽柴秀吉に播磨出陣を命じた。 十月二十三日、秀吉は中国の毛利家攻略のために京を発ち、播磨に出陣し た。秀吉は信長に降った黒田(小寺)孝高(よしたか)の姫路城に入り、播磨の 国中をめぐり諸豪族等に誘降し人質をとり、一ヶ月足らずで西播磨を支配下 に置いた。だが西播磨の豪族で上月城の、赤松政範(まさのり)は簡単に屈せ ず、毛利と結び備前の宇喜多家と連携を強め抵抗した。 秀吉は対抗上、上月城を包囲し救援の宇喜多勢を撃退し、上月城に総攻撃 をかけ、十二月三日に城を占拠した。 上月城は備前美作に近く、その後は織田の中国攻めの前進基地として最重 要拠点となってゆくのだ。この上月城に秀吉は信長の許しを得て、尼子勝久、 山中鹿之介を守将としたが、翌年の七月に信長の非情な命令で毛利勢の重囲 の中に置き捨て全滅させるという悲哀を味わうのである。 尼子勝久と山中鹿之助は、尼子家再興を夢見て信長の配下に従ったが、 毛利の大軍に包囲された。それを救援せんとする秀吉に別所長治の三木城 を優先するよう信長は命じ、結局、信長によって尼子主従は見殺しとされたの だ。この為に秀吉の信用は失墜し、中国攻めに多大な支障をきたすことになっ た。信長はそのへんの家臣等の苦衷など察せず、大名に取り立てたの余 である。文句なぞ言わずに働け、と自分の目的意識を優先させ家臣の都合に は目をそむけ弁明も聞かなかった。 この信長の考えは尾張の小大名時代の感覚であった。 少なくとも中国攻めの総大将ならば、与力大名の兵を加え二、三万名 ほどの大軍を率いる一手の大将である。 彼等は軍事力と政治力を駆逐して事にあたっていたのだ。 要は彼等は信長の家臣であるが、地方の国人や豪族から見れば戦国大名 に等しい力を擁していると見られていたのだ。その彼等の苦衷を無視する 信長という主は家臣等が大きく成長したことを知らなかった。 これが後に彼の命運を制することになるのだ。 こうして天正五年が暮れ、六年を迎えた。 この年の一月二十九日に、居城の安土城下から出火が起こったのだ。 その調べで弓衆の福田与一家から失火したと判明した。彼は妻子を尾張に 残した単身赴任者と判明した。 それに信長は激怒した。全ての家臣は安土城下に移住すべく厳命を出してい たのだ。それは強力な専業武士団の結成を目指したものであった。 それは信長直営軍団の常設を意味していたのだ。 信長は岐阜の嫡男、信忠に命じ単身赴任者を調べさせた。なんと弓衆六十 名、それに馬廻衆にも六十名が単身赴任者としれた。 信長は尾張に妻子を残してきた住居を全て焼き払わせ、樹木まで全て伐採さ せた。その結果、妻子はほうほうの呈で安土城下に引っ越してきた。 こうした事に忙殺されていた信長に、謙信病没の報せがもたらされた。 三月十三日に、信長が最も恐れた謙信が脳溢血で忽然と逝ったのだ。 この報せに信長は自分の幸運を知ったのだ。最早、恐いものは居ない。 だが、そうは甘くはなかった。十月十七日に信長は耳を疑う報せを受けた。 それは摂津、有岡城の荒木村重、謀反の報せであった。 この有岡城が毛利家と通じたのだ、この摂津有岡城が毛利勢と連携すれば、 信長の描いた中国攻めも、光秀の丹波地方の攻略も無に帰する。 荒木村重は織田家股肱の家臣ではない、信長に発見され磨きあげられた 武将であった。文武の才をもった武将で明智光秀とは馬があった。 村重の配下には、クリスチャン大名で名高い高山右近や、槍の瀬兵衛と異名 される中川清秀など、天下に聞こえた武将等が居た。 中国最大の勢力を誇る毛利家は、播州の三木城を最前線として織田家と戦 っている。この荒木村重の謀反は摂津が毛利の最前線となると云うことであ る。その謀反の原因は些細な事であった。村重の家来が兵糧に困っている 本願寺に米を売って利益をあげたと云うことであった。 村重に積極的な謀反などは考えていなかったが、その不始末を聞くに及び 信長の苛烈な性格を思い描いたのだ。このような些細な事を許してはくれる人 ではない。ここでも信長の烈しい気象が禍を起こしたのだ。 この荒木村重の謀反の後始末で、滝川一益と羽柴秀吉も苦い汁を飲まされ ることになる。荒木村重討伐軍の総大将を命じられた滝川一益は、預けられ た有岡城の村重の妻や、侍女達五百名を信長の命令で四つの小屋に押し込 めて火をかけ焼き殺している。 武門の人間として面目のないことをしてしまった。 一方、秀吉は村重反逆の説得に赴いた黒田官兵衛が幽閉され、それを信長 は寝返ってと勘違いし、人質の官兵衛の嫡男を殺せと命じたのだ。 この子が後年の黒田長政である。これは秀吉の軍師の竹中半兵衛の機転 で救われることになる。 信長の人材登用は、門地門閥や身分、家柄にとらわれず、能力を最優先と する合理主義から成り立っていたが、天下統一の目処がたった頃から、自信 過剰となったようだ。強烈な目的意識を持って性急に奔る信長は、些細なこと で危険な兆候を見せ始めたのだ。 これは彼の推し進めた信賞必罰の結果とも考えられる。 続く
「織田信長を考える」(二十四) 信長の当面の敵は石山本願寺であるが、本願寺の軍事力を担う雑賀衆を 彼は標的とし、翌年の天正五年の二月十三日に京を発ち、紀州の紀ノ川河口 に向かった。 雑賀衆とは紀伊の国、雑賀を中心とする本願寺門徒の集団であった。 彼等は雑賀五組からなり、鉄砲や水軍をもった石山本願寺の重要な軍事力 を構成していた。信長の出陣は太田源太夫の率いる雑賀三組と、根来寺の 杉坊が信長に味方をするということで出陣したのだ。 彼等は鉄砲集団として名を馳せていた。特に雑賀五組とは、雑賀荘、十ケ 郷、宮郷、中郷、三上荘の五つの地域集団であったが、十ケ郷の鈴木孫一は 強烈に信長に対抗した。彼は別名、雑賀孫一として有名であった。 織田軍は河口の湿地帯に阻まれ苦戦したが、翌三月には雑賀荘、十ケ荘の 二組が信長に降伏した。 信長は同月の十五日に孫一等、七名を赦免し、和泉、佐野に佐久間信盛を 置いて帰陣した。こうして石山本願寺の抵抗勢力を徐々に攻略していた。 この頃から信長は家臣の中から次ぎ次ぎと離反者を出している。 これは信長の生まれ持った気象のなせることかも知れない。 主従関係で信長は打算的な側面が顕著であった。信長は家臣を含め人間 関係というものが、信頼と温情の上に成り立つという考えが希薄であった。 そのせいか織田家の軍律は、峻烈を極めていた。将兵とも信長の怒りを恐れ、 軍紀は厳しく、つねに将兵は信長の顔色を窺がっていた。 その軍律も信長の気象で、度々、場当たり的な処罰を行っている。 織田家にあっては、そうした事が当たり前であった。信長は神の存在にちかく, 信長も当然にそのように振舞っていたのだ。 信長は自分に勝る者はいないという、異常までの自己過信を抱いていた。 過去の例をみても分るように、不可能を可能としてきた自信の表れである。 ブレーンを用いないないのも、そうした過去の成功の所為かもしれない。 更につめるて見れば、他人を信用しない男であった。 それは父の信秀の病死により、跡目相続争いで味わった肉親への不審感も 尾を引いていたのかも知れない。 家臣達は己の利益追求の道具、もしくはコマとしか見ていなかったのだ。 はじめは浅井家の旧臣、磯野丹波守が逃亡したのだ。 彼は信長にかなり信用を得ていたが、一夜にして居城を捨て出奔した。 「ご折檻なされ、逐電つかまつり候」こうした書置きを残しての逃亡劇であった。 こうした時期の十月に、松永久秀が背いたのだ、久秀は将軍義輝を殺した 大逆人であったが、信長は彼の才能を惜しんで家臣に取り立てた。 しかし四年前の天正元年に武田信玄の上洛時に、一度、信長に背いている。 だが信長は久秀の才略非凡を惜しみ、敢えて咎めなかった。 彼の持つ能力は天下布武を目的とする信長には、兵器や軍勢などよりも 数倍も勝る武器であった。信長は久秀より多聞城を召し上げ、信貴城を与え 優遇した。 昨年の本願寺攻めが再開されると、佐久間信盛に属し天王寺砦の城番をつ とめていた。しかし、八月に突然として砦を引き払い、本願寺と内応して信貴城 に籠城したのだ。この松永久秀の謀反の報せは信長を驚かせた。 信長は久秀を手許に引きとめようとして、松井有閑を久秀の許に差し向け た。「思うところを存分に申せば叶えてやる」と帰参を促している。 こうした譲歩にも係わらず、松永久秀の反抗態勢は本格的であった。 彼は石山本願寺と上杉謙信、毛利家とで信長を挟撃する態勢を整えていた。 これに対する信長の報復は凄まじいものであった。 久秀が人質として出しておいた二人の子供を、情け容赦なく処刑したのだ。 ここにも信長の残虐性を見る思いがする。武器が無用となれば捨て去るま で、信長はそう考えたに違いない。十月一日、織田勢の先鋒隊が片岡城を 陥落させ、三日には、総大将として信忠が着陣して信貴城を包囲した。 猛攻撃をうけた久秀は敗戦を自覚し、信長が所望していた名物の平蜘蛛茶 壷を打ち砕き、天守閣に火を放ち城とともに果てた。 信長という武将は革命児であると同時に、己の信用を失墜させた者には容赦 なく厳罰をもって臨み、残虐非道な報復をする男であった。 それは一種の狂気ともいえる振る舞いを平気でやっている。 だがここで信長の心理状態もみておかねばなるまい。それは上杉謙信の不 気味な動きがあったのだ。 信長はようやく石山本願寺を孤立に追い詰めたのだが、閏七月八日に、 上杉謙信は能登攻略の軍勢を越中の魚津城から出陣させていた。 この動きは松永久秀と石山本願寺の策謀と映っていた。 それ故に、松永久秀の手腕が必要であった。 上杉勢は九月十三日に能登の七尾城を包囲し、十五日には念願の攻略を終 えて十七日には加賀に入っていた。信長の恐れは上杉勢の動向にあった。 既に信貴城には松永久秀が籠城している。 九月二十五日に信長の恐れていた敗戦の報せがあった。 七尾城の陥落を知らない、織田勢三万余が柴田勝家に率いられ北上し、 加賀の手取川で謙信の指揮で完膚なく破れ去っていたのだ。 これにはさしもの信長も恐怖した、勝利の勢いで上杉勢が安土に押し寄せた ら織田勢は壊滅するかも、この恐れが久秀へ向けられたのだ。 幸いにして上杉謙信は手取川の手前で軍勢を留め、そのまま帰国していっ た。間一髪の差で信長は難を逃れたのだ。 続く