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長編時代小説コーナ [全1021件]
「改訂 上杉景勝」 (21) 「おう、…見事な眺めじゃな」 本丸の景勝配下の武将らの血が沸き立っている。 天守閣には甲冑を纏った景勝が床几に腰を据え、兜をかぶらず白練りの 白布で行人包みに顔を隠し、合戦の潮目を計っている。 その傍らに兼続が控え、景勝の下知を待っている。 「放てー」 景勝の下知が各部署に伝わり大鉄砲が凄まじい轟音をあげ、三ノ丸に撃ち 込まれた。屋根瓦が吹っ飛び白壁が砕け散った。 連日にわたり猛射が始まった。景虎側は火縄銃しかなく反撃が出来ない 情況にあり、さすがの景虎もこの攻撃に耐えきれず、三ノ丸に火を放ち脱出 し、直江津の上杉憲政の御館へ落のびた。 合戦開始から十日もたたない短期間で景勝は春日山城を完全に占拠した。 景虎は御館の補強を急いだ。なんせこの館は上杉憲政の隠居所で合戦に 耐えうる城ではない、ここで北条丹後守高広が活躍したのだ。 彼は越後各地の豪族を勧誘し、景虎の許に続々と諸将が集まってきた。 兵糧武器、弾薬が御館の城に運び込まれ、景虎勢の士気は一気に高まり、 越後を二分した凄惨な内乱が幕をあけたのだ。 景虎に味方した諸将の思惑は、景勝の器量に疑問をもっていたのだ。 果たして故謙信公のような将器があるのか、それに引き換え景虎には関東の 雄、北条家が控え。縁者として甲斐の武田勝頼が後見している、どう見ても 景虎一派に利がある。 こうして府中、現代の上越一帯で激戦が繰り替えされ、景勝勢は苦戦に陥り 戦線は膠着情況となった。 春日山城の大広間で軍議がひらかれた。上座に景勝が着座し股肱の兼続 が傍らに控え、冴えた眼差しで諸将らを見つめている。 将将連には上杉一門衆の山本寺景長、上条政繁、さらに歴戦の将の 本庄城の本庄繁長、新発田城の新発田重家、岩井城の岩井信能(のぶよし)。 与板衆の頭領で上杉家の重臣の直江信綱、信濃衆には山浦景国、板屋光 胤、国人領主の大石綱元、河田長親(ながちか)、吉井信景、長尾健四郎、 黒金泰忠(やすただ)、黒金為実(ためざね)、斎藤朝信等の武将であった。 「お屋形さま、まだお味方は居りますが、今は城中にはここに集いし諸将 のみにございます」 兼続の報告をうけた景勝が、浅黒い顔をみせ、 「大儀じゃ。おいおいと馳せ参ずる者もあろうが、今はこの兵力で敵にあたる」 相変わらず無口である。 「敵は続々と増えておると聞きます、勝ち目はございますか」 大石綱元が魁偉な容貌をみせ訊ねた。 「なんと-」 景勝が青竹を持って小首を傾けた、これは苛立った時の癖である。 「お屋形さま、我等は勝てる戦をいたします、今の言葉はお見逃し下され」 浅黄糸綾威錆色二枚具足の兼続が、景勝の言葉を押しとどめた。 ここで仲間割れは困る、その一念で景勝の怒りを抑えたのだ。 「我が上杉家には敗戦の二字はない」 景勝が凛とした声をあげ、青竹が鋭く宙を切り裂いた。 「皆さまに申し上げます、この合戦は一年は続くと思います。悪戯に功に 逸らず、我が陣立に従って頂きます」 「一年とは長いのう」 猛将で鳴らした新発田重家が野太い声をあげた。 改訂上杉景勝(1)へ
「改訂 上杉景勝」 (20) 景勝は三月十五日、春日山城の本丸と金蔵と武器庫を完全に占拠し、 内外に上杉家の名跡を継いだことを宣言した。 一方の三ノ丸の景虎の許に、続々と擁立派の諸豪族が参集し、一触即発 の情況になっていたのだ。併し彼等は圧倒的に不利であった。 景勝派は二ノ丸と本丸に武器庫まで制圧し、実家の坂戸城からも増援の 将兵が参集していた。 月があけた四月、直江津(なおえつ)の御館(おたて)に住まう前関東管領 の上杉憲政(のりまさ)より、 「上杉家は三郎景虎に継がせて欲しい」 との申し入れがあった。 兼続は、不識庵公(ふしきあんこう)のご遺言により、景勝公に決定して ござると、憲政の要求を一蹴した。不識庵とは故謙信の忌み名である。 それを聞いた景虎一派は三ノ丸の防御を強め、実家である北条家と兄の 北条氏政の妹婿である、甲斐の武田勝頼に救援の使者を走らせた。 (御館の乱) 本丸の大広間に景勝擁立派の諸将が参集している。景勝は不識庵公の 座所のわきに脇息を置き、不機嫌そうに座している。 小男ながら頬が豊で浅黒い肌と、濃い髭跡をみせ眼光鋭く大広間に 集まった諸将たちを見つめている。 一段下がった重臣らの横に、樋口兼続が白皙の面をあげ進言した。 「お屋形さま三ノ丸の景虎さまの勢いは、日毎に強まるものと推測いたしま す。早晩には関東、甲斐の救援勢が越後に押し寄せて参りましょう」 景勝は無言で肯き、重臣筆頭の直江信綱に視線を移した。 「兵の解散と帰国を命じましたが、帰国いたさず日和見を続ける不届きな者 が居ります。万一、救援の軍勢が襲いくれば三ノ丸殿に味方すると心得ます。 我等は一時も早く三ノ丸を攻略することが肝要かと思います」 「兼続、三ノ丸に加担いたす者共の名前は分かるか」 景勝が剽悍な眼で低い声を発した。養父の謙信どうように青竹を手にし、 まったく表情に変化をみせない。 「申し上げます。上杉景長、山本寺定長、本庄秀綱、北条輔広(すけひろ)、 神余親綱(かみよちかつな)、河田重親(しげちか)。これらが首魁かと存じます」 「上杉景長殿と山本寺定長殿は一門衆にござるぞ」 上条政繁が驚いて兼続に問うた。 「拙者が偽りを申しておると申されますか」 「いや、驚いたまでにござる」 この席でも兼続の偉丈夫は群を抜いている、所作も堂々としており声に朗々 たる気迫がこもっている。 「兼続、そちの存念を申せ」 「お屋形さまが国主と成られるには、越後の平安が何よりも肝要にございま す。まずは春日山城の完全なる制圧が必要。止むを得ないことながら、三ノ丸 さまを討つしか策はございませぬ」 「分かった。早速、準備をいたせ、合戦開始は明日の払暁と心得よ」 景勝が青竹を振った、風切音を響かせ彼は奥に去った。 集いし重臣らが景勝の果断な下知に感服している。 「流石じゃ」 「皆様方に申し上げます。明朝払暁に本丸に毘と龍の戦旗をかかげます。 それを合図に大鉄砲を撃ちかけます。三ノ丸の攻撃は鉄砲合戦と心得て 下され」 兼続の下知をうけ諸将等が持ち場に散って行く。 「見事な御大将じゃ」 重臣らが頬を崩している、景勝の颯爽とした姿が往年の謙信を彷彿させる のだ。翌日の早朝に本丸に毘と龍の戦旗がたなびいた。 続く 改訂上杉景勝(1)へ
「改訂 上杉景勝」 (19) 「兼続、まずは軍勢の解散命令を出さずばなるまいの」 直江信綱が憂い顔で兼続に相談した。 「信綱さま、慎重に成さねばなりませぬ。今はお屋形さまのご恢復(かいふく) を待つのが先決と思います。悪戯に動けば御中城さまにも、三ノ丸さまにも知 れるばかりでなく、諸将たちにも知れることになりましょう」 兼続の言うとおりである。この事態が諸将に洩れることになれば、跡目相続 の争いが起こることは眼に見えている。 三名の重臣は兼続の人物と才能の大きさを初めて知らされたのだ。 お屋形さまはこの若者をお側から離したことがない、兼続の忠告に叱責を 与えることもなく従っておられた。今も情勢を明晰に読み切っている。 ここに弱冠十八歳の樋口兼続が、にわかに大きな存在となったのだ。 謙信は仙桃院の懸命な看病にもかかわらず、意識不明のまま天正六年 三月十三日に波乱にとんだ生涯を閉じた。 遂に一言も口を訊かず、跡目の名もあかさずに没したのだ。 謙信の没後、枕の下から次のような辞世の一偈(いちげ)が出た。 『一期栄一盃酒 四十九年一酔間 生不知死亦不知 歳月只是如夢』 この辞世に『生不知死亦不知』と言う文言がある。その意味は、 産まれた時を知らずして、どうして死の時を知ろうか。謙信の死生観を 知る思いがする。 兼続の行動は素早かった、本丸の重臣、旗本衆を集め衆目の前に座り、 「お屋形さまがお隠れあそばした今、御中城さまを本丸にお迎えいたし、 上杉家の名跡を継いでいただくことが上策と思います。方々のご意見を 拝聴いたしたい」 不退転の気迫をこめて述べた。 誰も異論をはさむ者はいなかった、兼続の威に圧倒されたのだ。 喜平次影勝は義父謙信を上回る器量の持ち主として知られていた。 容貌は浅黒い肌で謙信に似た小男であるが、知勇と胆力は衆を抜きんで、 笑いをみせず無口であったが、その様子が彼を神秘で寡黙な武将として印象 づけていたのだ。それに謙信の血筋を引く唯一の人物であることが各将たち の信望を集めたのだ。 上条政繁が密使として中ノ丸に向かった。謙信の死を知らされた景勝は 本丸に入り、養父謙信の亡骸の傍らに侍り、後継者の地位を得た。 これは全て樋口兼続の大胆な策略の賜物である。 重臣らは全て幻惑にかかったように、若年の兼続の指示に従い行動した。 本庄繁長と長尾権四郎の二将が、兵士を引具して本丸の諸門をかためた。 一方、直江信綱は関東出馬の中止を下し、各将に軍勢の解散を命じた。 お屋形さまの死が知れたら、三ノ丸の景虎に加勢して功名手柄を期待する、 武将が現れることを危惧した処置であった。 まさに鮮やかな手並みを兼続は見せたのだ。 城内の慌ただしい様子に気づき、三ノ丸の景虎が家来を引き連れ本丸に 入ろうとしたが、本庄、長尾の手勢に遮られ三ノ丸に引き返した。 景虎は未だに謙信の死を知らなかったのだ。 続く 改訂上杉景勝(1)へ
「改訂 上杉景勝」 (18) 「わしは気を失っておったか?」 「あまりにも静かで不審に思い堂に入り、倒れられているお屋形さまの お姿を発見いたしました」 兼続が謙信の躰を抱え答えた。 「誰ぞ、他に知っておる者は居るか」 「どなたにもお知らせはしておりませぬ」 「そうか」 謙信が力なく答え眼を閉じた。後頭部が痺れ手足が麻痺し思うように 動かせない。 「兼続、上条政繁と直江信綱、本庄繁長をひそかに呼び出せ」 「仰せのごとくに」 兼続が謙信の意を酌み、素早く堂から駆け去った。 「わしは見捨てられた」 毘沙門天の憤怒の形相が心なしか和んでみえる。姉上を慕い畜生道に 陥った罰がこれであったか。 謙信の顔に達観した色が浮かんでいる、わしの命脈も尽きたようじゃ。 その思いが脳裡をよぎった。 本庄繁長が顔色を変えて現れ、直江信綱と上条政繁もすぐに姿をみせた。 「お屋形さま、いかが成されました」 三人が蒼白な顔色の謙信の姿を見て呆然と立ちすくんだ。 「これより寝所にお運びいたしますが、誰にも見咎められては成りませぬ」 樋口兼続が厳しい声で三人に声をかけた。 この時期にお屋形さまが伏せられては、上杉軍団の士気に影響する。 兼続のとっさの判断である。 「兼続、わしを厠(かわや)に運んでくれえ」 「畏まりました」 謙信は厠に運ばれ一人となった時、突然に後頭部に激しい衝撃が奔った。 全身がまったく動かないのだ、(卒中か)と悟ったと同時に意識を失った。 四人により寝所に運ばれ、謙信は昏睡状態に陥っている。 時節は丁度、三月九日の正午である。四人は謙信の枕辺に侍り沈痛な 面持ちで鼾をかいて横たわる、主人の容態を見つめている。 「お屋形さまは卒中と思われます」 兼続が声を低め三人の重臣に告げた。卒中とは現代の脳溢血のことで ある。極秘に呼ばれた医師が懸命に治療をほどこすが、謙信の意識はもどら ない。この時代の卒中は不治の病と言われていた。 急を告げられた仙桃院が寝所に招かれ、謙信の容態をみて声を失った。 「仙桃院さま、お屋形さまのお命は旦夕(たんせき)に迫っております」 兼続が冷徹に宣告した。 「最早、いかぬと仰せか」 三人の重臣と兼続が無言で平伏した。 「城内の者はここに居る者以外は、お屋形さまが病に伏せられたことは知り ませぬ。なにとぞ皆に知られれないようにご看病をお願い仕ります」 「兼続、わたくしと医師殿の二人で看病いたしましょう。今後のことは宜しく 頼みます」 四人は別室で待機している。兼続は謙信の命脈の尽きたることを読み切り、 これからの上杉家の問題を考えている。 「御中城さまと三ノ丸さまにはお知らせいたさねばなるまいな」 重臣筆頭の直江信綱が口火をきった。 「なりませぬ」 すかさず兼続が断固たる口調で反論した。 「なぜじゃ」 「信綱さま、お屋形さまには嫡男が居られませぬ。跡目相続の言葉もなく お倒れになられました。もしこれが洩れたら城下の諸将が真っ二つに割れる 事態になりましょう」 「影勝さまと景虎さまの後継者争いが起れば越後は戦乱となるの」 本庄繁長がぽっりと呟いた。 「拙者は景勝さまに従う」 上条政繁が断固たる決意を示した。 「本丸には我等以外に、新発田重家(しばたしげえい)殿、長尾四郎景路殿、 その他は旗本衆にござる。暫くは様子を見ましょう」 兼続が白面の顔を引き締めて一同を見渡した。 続く 改訂上杉景勝(1)へ
「改訂 上杉景勝」 (17) 腰高に帯をしめた仙桃院のか細い腰のくびれと、胸の盛り上がりが眼に 痛い。 「さあ、一献召しあがれ」 姉の仙桃院はこうして見ると乙女のように可憐に見える。 「お笑いめさるな、こうして居ると身のすくむ思いがいたします」 仙桃院が恥じらいを浮かべ謙信を見つめた、眸子が潤み挑むような 光を宿している。 「お誘いをうけ夢をみているような心地がします」 「貴方とは今生の別れのような気がいたし、覚悟をさだめお誘い申しました」 「嬉しきことにございます」 二人は寝所にもつれるように入った。既に布団が敷かれてあった。 「姉上」 昔、人倫の道を踏み外した二人が激しく抱き合った。謙信は姉の芳しい匂い に包まれ甘えた。仙桃院が巧みに謙信を恍惚の境地に導く。 二人の吐息が高まり、それも鎮まった。謙信は半刻ほと汗に湿った姉の乳房 の谷間に顔を埋め仮眠した。 「姉上、もう戻らねばなりませぬ」 眼を覚ました謙信が名残り惜しそうに乾いた声をあげた。 「きっとご無事にご帰還して下され」 「はい、北条を倒しきっと戻って参ります」 謙信の眼の前に姉の乳房の谷間がまぶしく映え、別れ難さをおし隠し寝所 を辞した。こうして姉弟であり愛人でもある二人は、心を残し別れた。 「お屋形さま起きて下され」 兼続の声で謙信は目覚めた、心身から力の漲りが感じとれる。 「朝食を終えたら毘沙門堂に籠る、昼ごろには堂をでる」 「分かりました。無心な境地になられるまで戦勝祈願を成されませ」 「兼続、分かったような事を申すな」 謙信は冷水で躰を清め毘沙門堂に入った。既に兼続が全ての準備を 済ませていた。堂内には護摩が焚かれ、毘沙門天が憤怒の形相で謙信 を見据えている。 謙信は思わずひざまずいた、心の臓に痛みが奔ったのだ。 『謙信、汝はまた戒律を破ったの』 毘沙門天の怒りの声が堂内に響き渡った。 「お許し下され」 『天下静謐の大軍を発する前に、畜生道に再度陥るとは情けなや。汝は 武の神の使者として天下万民のために兵を起こす。その為に心身を清め 無心の境地に至ることが努めじゃ、それをこともあろうに畜生道に陥ると は情けなや』 毘沙門天が凄まじい怒りの声を謙信に浴びせる。 「わたしは幼少から姉上が好きでした」 『汝はそれでも上杉謙信か?天下に恐れられた武将か、恥を知れ。汝の 命運はもはや尽きた。堂を出て天寿を全ういたせ』 「わたしに兵を率いることをお許し下され」 突然、全身に激痛を覚え、謙信の顔から脂汗が滴った。 『汝は無心になれるか』 「なりまする、無心の境地に至るまで祈祷いたします」 謙信は苦痛と戦いながら一心に懇願した。 「我が命、我が五体を全て奉ります。なにとぞ関東出馬をお許し下さい」 毘沙門堂で激痛に堪え謙信は懇願した。そんな時に仙桃院の声がした。 「確り成され、毘沙門天に負けてはなりませぬ」 『馬鹿者、これを思いだせ』 毘沙門天の声と同時に、仙桃院の悶える姿態が写し出された。 「天は我を見捨てたもうたか」 謙信が血を吐くように叫び意識を失った。 「お屋形さま」 遠くで樋口兼続の声が聞こえる。 「兼続か」 「お気が付かれましたか、顔色が真っ青にございます」 「ここはどこじゃ」 「毘沙門堂にございます」 謙信は視線を廻した。護摩の煙が立ち込めるなかに毘沙門天の像が 見えた。 続く 改訂上杉景勝(1)へ
「改訂 上杉景勝」 (16) 「お屋形さま、上条政繁さま拝謁を願い出てておられます」 「兼続か、暫く待つように申せ」 兼続が足音を忍ばせ居間の前から去った。 「お忙しことにございますな、わたくしは失礼いたします。無事なご帰還を お祈りいたします」 仙桃院が気を遣い立ち上がった。 「姉上、もう少しお話なぞしたい」 「今宵、お出で下さい、お待ちいたしております」 仙桃院が小声でささやき、静かに居間から辞していった。 姉上が今宵、わしを待っておる。謙信が小首をかたむけ顔色が朱色に 染まった、信じられない言葉を聞いたのだ。まさに夢のような言葉である。 その夢を破るように樋口兼続の声がした。 「上条政繁さま、お成りにございます」 仙桃院の帰りを待って兼続が気を利かせたのだ。 「折角のお寛ぎ中、お邪魔をいたします」 上条政繁が居間に現れた。彼は数奇な運命に翻弄されてきた男である。 能登、七尾城の守護職の畠山義続の次男として産まれたが、人質となって 春日山城に身を寄せていた。今は謙信の養子となり、上条政繁と名乗り一手 の将となっている。歳は二十六歳で景虎が長男なら、次男の年齢で景勝の 兄にあたることになる。 「政繁、いかがいたした」 「お願いの儀がございます」 大兵の若者で厳つい容貌をしている。 「申してみよ」 「はっ、こたびの関東攻めには、是非、先陣を仰せつけ下され」 「先陣とな・・・」 「はい、拙者は人質の身からお屋形さまのお蔭をもちまして、上条城を 任され申した。この度の合戦は上杉が命運を懸けた合戦と心得ます、 拙者はお屋形さまへのご恩返しの意味で、先陣を承けたまわりたくお願いに 参上つかまつりました」 興奮で顔を赤らめている、そんな政繁を謙信が穏やかに見つめ、 「政繁、上杉勢の先陣はわしの勤めじゃ。これが上杉の習わしなのじゃ、 じゃが心意気は感じた。この度はわしの脇を固めよ」 「有難き仰せ、政繁身命を賭(と)してお屋形さまの脇備えをいたします」 「我が戦だて、確りと眼に焼き付けよ」 上条政繁が勇んで戻っていった。 「兼続、そちは上条政繁の器量をいかが見る」 「うってつけの武将かと存じます」 謙信の問いに兼続が、打ってば響くように返答した。 「わしも歳じゃ、先陣の任はちと重くなったわ」 「左様にございましょう。そろそろ上杉家の陣法を変える時期かと存じます」 「言うたな兼続」 謙信は怒りもせず、腹の底から愉快そうな笑い声をあげた。 「お屋形さま、ご酒をお持ちいたしましょうか」 「まだ残っておる。そちは下がって休め」 謙信は一人となり春日杯を手にしている、気が高ぶり頭が冴えているのだ。 姉の囁きが何を意味するのか分かっている謙信である。 夜の帳が春日山城をおおい静寂につつまれている。 そんな中を法体(ほったい)姿の謙信が、足音を忍ばせ長廊下を伝っている。 既に灯火の消えた箇所もあるが、満月の光が差し込み荘厳な雰囲気を醸し だしている。謙信は辺りに気配りをしながら北ノ丸へと進んでいた。 視線の先に仙桃院の部屋が見え、微かな灯りが洩れている。 謙信は高ぶる動悸を押さえ襖を開けた。いつもの場所に白練りの寝衣装を 身にした姉が、ひっそりと待ち受けていた。 「遅くなり申した」 「無理をお願いしましたな。襖を閉めてここにお座り下さい」 仙桃院が年を感じさせない艶やかさで、謙信を手招きした。 「ご免」 法体姿の謙信は指された座布団に腰をおろした。眼の前には膳部が用意 され、心づくしの小鉢物と徳利がのっている。 改訂上杉景勝(1)へ
「改訂 上杉景勝」 (15) 秋霜烈日なお屋形さまに、往年の覇気が失せている。常ならば気迫と鋭気 にあふれ、近寄りがたい雰囲気の謙信の変化を兼続は見逃さなかった。 あまりにも温厚に成られておられる、それが気になるのだ。 今宵も北ノ丸にお出かけ成され、仙桃院さまとお遭い成されておられる。 兼続の胸中に悪夢が奔った。それは恐れおおいことであったが、彼の明敏 な頭脳が上杉家の秘密に係る、重大事を示唆したのだ。 兼続は自分の推測に怯えた。それはおぞましい想像であった。 お屋形さまの変化は仙桃院さまにあると兼続は思った。 不犯の武将と言われたお屋形さまに女人が居られるすれば、あの態度の 変化は理解できる。 兼続は景勝の父の政景の横死までさかのぼって思案を巡らせ、ある結論を 導きだし戦慄した。 景勝さまはお屋形さまと仙桃院さまとの間に、産まれたのではそう考えると すべてが辻褄が合う。 「馬鹿な姉弟のあいだに、そのような関係があるものか」 兼続の若さがそれを否定したが、後に再び思い起こされることになる。 (巨星墜っ) 天正六年三月八日、謙信は居間で愛用の春日杯で酒を楽しんでいる。 既に上杉軍団の武将には命令が下っていたが、ようやくにして武器、弾薬、 兵糧、馬匹の準備が終わり、出陣の態勢が完了した。 方針どおり六月十五日に出馬する。あらためて各将に下知された。 今回の上杉軍団は越後を中核とし、謙信の分国である越中、加賀、能登、 上野の諸将に率いられた大軍であった。 謙信は常のごとく小梅と塩を肴に酒を干し、今度こそは関東を征服すると 決意していた。まずは北条家の小田原城を陥す。 謙信の脳裡に三国峠の難路がよぎった。なんど峠を越えたことであろう、 関東の諸豪族は越後勢の侵攻を知ると、恭順の意を示し北条勢に立ち 向かうが、北条勢は小田原城に籠り亀のように、首をすくめ籠城を続ける。 越後勢は降雪の始まる前に三国峠を越えて帰還しなければならないのだ。 折角、血を流し得た領土は、冬季になり越後勢が引き上げると待っていた ように、北条勢が関東を再び制圧するのだ。 そうした合戦を数々行ってきたのだ。まさに鼬(いたち)ごつこのような戦い の連続だった、今回こそ決着をつける。 それにつけても時代は様変わりをしていた、謙信の宿敵であった武田信玄 は五年前の上洛途中で病没し、関東の北条氏康も他界している。 これからは安土の織田信長との勝負となろう。既に織田家は加賀、能登、 越中に兵を向け、手取川で一戦した。この合戦が終わったら織田勢を叩き 伏せる。謙信はこのような将来像を描いていたのだ。 その夢が突然に破られた。 「お屋形さま、仙桃院さまお成りにございます」 「姉上さまがおこしか、お入りいただけ」 取次の樋口兼続に命じ、謙信の全身に喜びが湧いている。 「お屋形さま、今宵もお酒を嗜(たしな)んで居られますか」 衣擦れの音とともに仙桃院が優雅な姿を現した。 「お座り下され、本丸にお越しとは驚きましたぞ」 「お逢いしたく参りました」 「お楽になさって下され」 「こたびのご出馬は天下静謐(せいひつ)のためとお聞きいたしました」 「左様、北条家とは最後の合戦にいたします。次は上洛にござる」 謙信が春日杯を飲み干し、仙桃院を見つめた。 「その勇ましさは昔と変わりませぬな」 そう言いつつ仙桃院が近づいた、何の気負いもない自然な仕草である。 「半年か一年の軍旅となりましよう。さすればこのように春日山城と最後 の別れの一献を楽しんでおります」 「最後なぞ不吉です。さあ、酌なぞいたしましよう」 謙信は差された春日杯を一気に空けた。 「美味うござる」 小気味の良い音をたて、小梅を種ごと噛み砕き謙信が笑みを浮かべた。 そっと仙桃院が謙信の手を握った、少し汗ばんだ暖かい手の感触が謙信 の心を和ませた。 「幼き頃は、よくこうして頂きましたな」 「影勝殿も景虎殿もご一緒に往かれますか?」 「我が上杉家の総力をあげた合戦にござる」 「そうですか、景虎殿は辛いでしような」 ひっそりと仙桃院が謙信の躰に身を寄せた、またもや嗅ぎなれた芳しい 匂いが漂ってきた。 「景虎は北条家の出ながら養子にござる。乗り越えねばなりませぬ」 謙信が柔和な口調で述べた。 明日はお休みします。 改訂上杉景勝(1)へ |一覧| |