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うららかな光を浴びて春風にそよぐ暖簾をくぐって玄関の外に出た紅柿荘の女将啓子さんが、両手を高く上げて背伸びをする。 「あのお、すみません」 「はあ」 玄関脇の駐車場に小柄の作業着姿の男性が立っている。 なにか工事を頼んでいたかなと思いつつ男性に目をやると、 「あの、あの、インターネットで予約をしていた宇留間 酉二郎(うるま とりじろう)ですけど、受け付けてもらってますか」 「ああ、ハイハイ、宇留間酉二郎様、承っておりますよ。ようこそいらっしゃいませ」 身長は155センチくらいだろうか、体も痩せていて頭の上の方には申し訳程度に生えている産毛(うぶげ)が風に揺れている。 「宇留間酉二郎さまって、どこかでお聞きしたようなお名前ですが」 「それはふーてんの寅さんの車寅二郎じゃないんでしょうか。ぼくは二の酉の日に生まれたんで祖父が酉二郎と名づけたそうなんです。ボクはドジで何をやっても空回りばっかりなので、職場じゃ『空転の酉(とり)』って呼ばれていました」 自嘲気味にさびしく笑った酉二郎さんを女将啓子さんが優しく見つめる。 『この方は、だけど、瞳が清々(すがすが)しいわ』 「どうぞ、お部屋にご案内致します」 お風呂を使った酉二郎さんは食事の間に案内された。 酒は苦手という酉二郎さんの御膳にはフルーティな香りの梅酒が添えられている。 「ボクは15歳の時に中学を卒業して工場に働きに出て、酒もたばこも遊びもなんにも知らないんです。着るものだって作業着と作業ジャンバーしかもっていないんですよ」 「あの、奥さまは」 「いやあ、ボクは女の人とは話したことがないんで、嫁さんとは縁がないです。この20年間、働いてきただけでした。それで、なんだかこんなんでいいのかなあって思って旅に出たんです」 「そうですか。旅で新しいご自分との出会いがあればいいですね」 そこへ、今は紅柿荘の仲居姿が板についてきた敬子さんがお櫃を持って部屋に来た。 「ねえ、敬子さん、私、広間のお客様に御挨拶に行ってきますから、こちら、宇留間様のカニを焼いて差し上げてください」 「はい、わかりました。いらっしゃいませ、宇留間様。客室係の敬子です。女将のようにうまく焼けるかどうかわかりませんけど、よろしくお願い致します」 「は、いえ、ボクの方こそお願いします。御手数をおかけいたします」 やや猫背の酉二郎さんが肩をすぼめて頭をさげる。 顔をあげたら、敬子さんのキラキラ輝く笑顔が目の前にある。 「きれいだ」 思わずつぶやいた酉二郎さんに、 「あら、お上手ですね。それで何人の女性を口説かれたんですか」 「えっ、いや、ボクは若い女のひと話すのは今、ここで、あなたととが始めてです。今まで工場と家を行ったり来たりで女の人と話すなんてことはありませんでした」 酉二郎さんは真っ赤になってタオルで汗を拭きながら俯(うつむ)いて震えている。 「あら、申し訳ありません。私、失礼なことを申し上げたみたい」 「いや、そんなことありません。ボクの方こそ女の人との話し方をしらないもんですから、どうぞ気にしないでください」 酉二郎さんは俯いたまま、焼けたカニの足を殻ごと口に入れて「アチチ」と吐きだした。 敬子さんはどちらかというと2枚目を気取って突っ張った男たちとばかり付き合ってきたので、こんな男性の姿は始めて見たといえる。 『うふん、可愛い』 「あの、お食事が済まれましたら1階の玄関脇にレッドというラウンジがありますからいらっしゃいませんか」 1階のラウンジバー レッド。 カウンターの隅っこに酉二郎さんが体を固く小さくして腰掛けている。 「あら、宇留間様、そんな隅っこにいらっしゃらないでここ、真ン中においでください」 「ああ、いえ、ボクはここの方がいいんです」 カウンターの外に出てきた女将啓子さんが酉二郎さんの両腕をかかえるように、 「だめですよ。今から大きく羽ばたこうとする殿方が隅っこにいらしては。真ン中に陣取って、胸を大きく開いて世界を見渡してくださいね。宇留間様のその清らかな眼差しで世界中の人たちをやさしく包んであげてください」 「そんな、ボクなんかがそんな大それたこと・・・」 女将啓子さんが酉二郎さんの肩をそって引いて背中を椅子の背もたれにつけると、自然に胸郭が開いて姿勢が良くなる。 「あら、すてきだわ。いままでとまるっきり違うわ」 敬子さんが思わず喜びの声をあげる。 「そう、殿方はねえ、自分に自信を持つのとそうじゃないのとでは月とスッポンくらい違ってくるのよ。どお、今まで隠れていた酉二郎さんのオーラが一度に光り輝いたのよ、今」 女将啓子さんもうれしくなって、 「じゃあ、宇留間酉二郎さんの新しい人生の門出を祝って3人で乾杯しましょう」 翌朝。 宇留間酉二郎さんは仲居の敬子さんが運転する車で加賀温泉駅まで送ってもらった。 「敬子さん、ボク、いきなりこんなこと言っていいのかどうかわかりませんが、敬子さんと結婚したいです。昨日、敬子さんが話してくれた竜太君の弟を産みましょう。いや、竜太君をもう一度僕たちの子供として迎えましょう」 敬子さんはなにも応えない。 酉二郎さんは『しまった、なんでこんなことをいってしまったんだろう』と唇を噛んだ。 敬子さんは駅構内に車を停めたままハンドルに両手を預けている。 「敬子さん、すみません。調子に乗って、ボク謝ります。すみません、どうも有難う」 ドアを開けて降りようとした酉二郎さんの右手を敬子さんの左手が止めた。 「待って、待ってください、行かないで」 敬子さんの両の目から流れ出た涙が頬を伝って落ちる。 「そうじゃないんです。わたし、初めてなんです。私みたいな者と結婚したいだなんて言ってくださる方は。私、うれしい。だけど、本当に私でいいんですか。信じていいの」 敬子さんがすがるように見つめた酉二郎さんの瞳がやさしく輝き強くうなずいた。 敬子さんは流れる涙を拭こうともせず、機械油の臭いがしみ込んだ酉二郎さんのポロシャツの胸に押しつけて声をあげて泣いた。 「これ、想い出石、置いてくるの忘れたから。。。敬子さんを迎えにくる日は後で連絡します」 『女将さん、有難うございます。これからは自分を信じて力強く生きていきます。宇留間 酉二郎』 敬子さんは酉二郎の横の空いたスペースに『けいこ』と書いてフロントカウンターの横に置いた。 今日も紅柿荘の白い暖簾が春風にそよいでいる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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