知子さん2005年3月下旬従兄(50代後半)から相談があると言われ、従兄宅へ行った。 この従兄夫婦と私達夫婦は仲が良く、4人でちょくちょく出かける間柄です。 従兄の奥さんの実の妹である知子(54歳)さんが胃潰瘍で入院しているのだそう。 従兄の家は神奈川、知子さんの家は茨城です。 「まだ、お見舞いに行っていないけど、胃潰瘍で胃を切るなんておかしいよね」 と、言いいます。 「電話での知子の話だと、ひどい胃潰瘍だからこれから切る事になったけど、心配しないで」 と、言われたそうです。 胃潰瘍で胃を切る?これは間違いなく胃癌だと思いました。 まず胃癌に間違いないから、手術前にお見舞いに行って話を聞いてきたらどうかと、提案しました。 本人はどこまで知らされているかわからないので、ご主人に話を聞くべきでしょうと。 胃癌の事はわからないから同行して欲しいと頼まれ、私達夫婦も同行する事となりました。 2005年4月2日 従兄夫婦と茨城の知子さん宅で、入院の知子さん抜きでご主人に話を聞きました。 最初は胃潰瘍だと言っていたご主人ですが、私達夫婦が胃癌に詳しい事を悟ると、 主治医が書いた説明書きを見せ、状態を話し始めました。 進行性の胃癌である事、開いてみなければわからないが腹膜播種の可能性がある事、その時はバイパス手術だけにする事、現時点では体力がないので手術ができないから、体力を付けるため入院でIVHで栄養を補給している事、余命は1年くらいかもしれないと言われた事・・・ 思いつめた表情で話してくれました。 この時、私達夫婦は知子さんのご主人とお会いするのは2度目でした。 父の新盆の時にご夫婦で家に来てくれた時以来です。 そんな私達に、よくここまで話してくれたと思いました。 進行性胃癌であれば、尚の事最初の手術が肝心です。 バイパス手術は言わば姑息的手術とも言われる手術で、一時的に食事が摂れるようにするだけの手術です。 癌を切除する訳ではありません。 手術前にセカンドオピニオンを受けてみてはどうかと薦めてみました。 それから、手術または転院を選択しても遅くはないのではないか?と。 ご主人は、もう決めた事だから今の病院でこのまま手術を受けますと言いました。「ですが、遠路ここまで来てくださったのですから、そのお気持ちを受けセカンドオピニオンは受けさせて頂きます。 ですが、お話を聞くだけに留めます、転院等は考えておりません。」 これがこの日のご主人の判断でした。 2005年4月4日 セカンドオピニオン当日。 知子さんのご主人と長男が二人揃って来院。 私達夫婦も、行きがかり上というか責任上、同行しました。 この日も、転院は患者共々考えていないと念を押されました。 米村医師のセカンドオピニオンを受診。 30分~40分くらいだったか、Y医師のセカンドオピニオンを受診後、ご主人はおもむろに 「米村先生に全てをお任せしたい。入院申請をして来ます。」 と、気持ちが180度変わっていました。 米村先生に惚れこんでしまった様子でした。 こういった事は稀ではなく、私は密かに「ヨネムラマジック」と呼んでいます^^; それだけの物をもった医師である事は間違いありません。 米村先生のお人柄も経歴も何も知らない、入院中の知子さんをどう説得するか?という事が最大の問題になりました。 ご主人と長男もこの点には頭を抱えましたが、気持ちは晴れやかで 「泣き落としにするか?」 なんて、ジョークまで飛び出しました。 とにかく、明るい日になりました。 2005年4月7日 渋る知子さんをどうやって説得したのかわかりませんが、この日米村先生の病院に入院となりました。 改めて検査予定が入り、入院しながら案外せわしい日々が始まりました。 2005年4月21日 腸の検査で腹膜に大きい癌が沢山ある事が判明。 腸に入れた検査機会から光を照射し、影を見る事ができます。 ボールマン4型の癌では、種のような小さい癌が無数に存在する「腹膜播種」になるけれど、ここまで大きくなるのはボールマン3型の特徴だと説明を受けました。 直径2センチ近い癌が沢山あったとの事。 本来であれば、ここで手術不可と判断されますが、癌は切除せねば確実に悪さを働きます。 原発巣だけでも切除して欲しいと頼みました。 2005年4月25日 手術当日。 朝から、ご主人、長男、三男、実姉夫婦、主人と私で付き添いました。 くしくも、この日は尼崎脱線事故の日・・・忘れられない日となりました。 手術が始まってしばらくして、呼び出されます。 執刀医は手術件数が日本一あるのでは?と思われる米村先生のお弟子さんでした。 若干膵臓と癒着があったそうで、切除が大変だったけれど、何とか切除したそうです。 腸にもかなり浸潤しており、とれるだけの腸も切除しましたと、切除した胃と腸を見せられました。 所々、白い点々がり、これがまさに癌です。 腹膜の癌は大きすぎて切除出来ず、残しましたが大元は切除出来ました。 あとは雑魚の癌を何とか出来れば、と延命に賭けたわけです。 2005年4月30日 術後からずっと痛みがひどく、40度を越える高熱が何度も続き検査をしたところ、この病院では2%にも満たない確率で起こる、縫合不全が判明。 知子さんの栄養不良が相当のものであった事が想像できました。 再手術という選択肢も出ましたが、再度の開腹で体力を奪われる事の不安もあり、様子をみながら、自然治癒を待つ事になりました。 2005年5月4日 知子さんが心配で病院に様子を見に行く。 この日は4年に1回の国際胃癌学会が横浜で開催されていました。 知子さんの執刀医は、この学会で今日論文を発表する事になっていたはずなのに、病院にいましたね。 「今日は論文発表の日なのではないですか?」と尋ねると、 「よくご存知ですね。学会や論文より患者さんの方が大事ですから、今日は欠席しました。 このまま明日も具合が良ければ、明日は学会に出席させて頂こうと思っています。」との返事。 知子さんが縫合不全を起こした事で、この執刀医が憔悴しているのがわかる。 責任を感じておられるのだな・・と思いました。 ちょうどGWであり、病院は長期休み。 それでも、殆ど病院に来られているようでした。 2005年5月6日 執刀医の先生から、検査の結果再手術せずとも良さそうだとの話を聞く。 しばらく、痛みと高熱で苦しんでしまったけれど、もう大丈夫そうだ。 2005年5月21日 土曜日で病院は休みだったけれど、知子さんと、ご主人、知子さんの姉夫婦、そして私で術後の説明を受ける。 説明の殆どは執刀医、その側に米村先生がいました。 大元の癌は出来る限り切除した事、取りきれない癌が残っている事、今後は化学療法を行うという内容でした。 今後の化学療法に関して、米村先生が初めて口を開く。 「抗癌剤には幾つか種類があります。飲む薬と、弱い薬、それと副作用が強い薬。」 飲む薬ってこれはTS-1だな、弱い薬って5FUかな、それともフルツロンか、ミフロール?、強い薬ってCPT11に間違いないな・・と頭の中で変換して聞く。 在宅で出来る事、奏効率が高い事から、TS-1から始めるのが良いのではないか?という事になりました。 でもまだ回復待ちの状態で、始めるのはもう少し先の方が良いという話もありました。 2005年5月28日 知子さん、退院の日。 知子さんのご主人が、知子さんの姉夫婦と一緒に迎えに行く。 私達夫婦も、別の車で病院へ行く。 お世話になった看護師さん達に挨拶をして、午前中に退院となりました。 帰り際、米村先生にお礼の電話を入れると、たまたまこれか病院へ行くのだと言われるので、私達夫婦はY先生と会う事にしました。 今後の化学療法の相談がありました。 米村先生の病院では、患者が溢れ返っていて今後内科での治療は難しそうです。 米村先生は外科なので、内科治療をする事はできません。 どこの病院でもスタンダードな治療なら同じと言われてはいますが、現実は違う事は充分承知していました。 今後の治療を信頼がおける病院で、となるとどこにするか??これが悩みの種でした。 |