3652518 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

スキルス胃癌 サポート

スキルス胃癌 サポート

セカンドオピニオンから帰ってから

2001年10月

気分は晴れ晴れ、心も軽くなって帰って来たものの、これからが実は大変だった。
本当の意味での戦いが待っていた。

主治医にTS-1という薬を使ってくれるように頼んでみた。
すると、すぐさま「そんな副作用が強い薬は使えない!」と却下された。
確かにこの頃はまだTS-1は新薬の部類で、実は死亡症例も出たりして、よほど熟知した医師でない限り使用を怖がる傾向があった。

何より困ったのが、TS-1の使用を頼んだ事がいつしか「患者の娘から治療にクレームがついた」事になり、治療中断を余儀なくされた事だった。
この治療中断に至るまでに、主治医と私(ほとんど主人だが)の間に数時間に及ぶ大激論があった。
主治医は現在でも有名な高名な医師で、それ故にプライドをかなり傷つけてしまったらしい。
そもそも、無理やりデータを借りて、主治医の許可無く受けたセカンドオピニオンだったからなぁ・・・後悔はしていないけど、やはりまずい事になってしまった。

こうなってしまったら、もうこの病院にはいられない。
入院中の父は「針のむしろだ」と嘆いていた。

とにかく受け入れてくれる病院を探さねば!と、父が入院中に主人と二人で当ても無く探し始めた。
お世話になる病院に迷惑はかけられないから、主治医と大激論があった事実を包み隠さず話した上で転院を頼んでみたが、どこも断られた。
父が入院している病院はこのあたりの中枢病院だ。
この病院で問題を起こした患者は敬遠されても仕方がない。

この時、ふと米村先生が言っていたH病院の名前が浮かんだ。
家からはちょっと遠くなるけど、車で1時間半~2時間程度で行ける。
あの病院を紹介して頂けないだろうか?と藁をもすがる思いで、思い切ってY先生が勤務していたK病院に電話を入れてみる。

この頃はこの紹介して貰おうと考えたH病院のすごさを、実は全く知らなかった。
日本屈指の癌の病院だと実感したのは、これからずっと後の事だった。

運良く、米村先生に電話が繋がった。
「お忙しい時に急な電話で大変申し訳ございません。
 先生のご都合の宜しい時間にかけ直しますので、いつならお時間を頂けますでし ょうか?」と言うと、
「今日はこれから学会なんです。どうかしましたか?」
と、言われた。
「そうでしたか、では手短にお話しさせて頂きます」
と、事情を話し、H病院の紹介を頼んでみた。
すると、米村先生は
「それはお困りでしょう。まず、若い先生に栄養点滴を頼んでみなさい。きっとや ってくれるから。お宅何番ですか?」
と、うちの電話番号を尋ねられる。
かけなおすからと言われ、電話が切れた。

20分と待たないうちに米村先生から電話がきた。
「今ね、H病院の○○先生と電話で直接話せたから、話がつきました。
 ○○先生の外来のこの曜日にお父さんを連れて行きなさい。診てくれますか   ら。」
と言って、電話が切れた。

何が何だかわからない急展開だったけれど、とにかく父を退院させ、H病院に連れて行く事になった。

下世話な話だけれど、この時、Y先生とは別にコネも何もない。
お礼すら何もしていない。
病院の紹介を頼むには、普通H病院クラスになると数十万円包むのが世間の常識だと、しばらくして知った。
ただ、この時は
「いつか、米村先生に恩返しをしなければ」と心に強く思った。
 





© Rakuten Group, Inc.