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2015.06.30
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カテゴリ:映画感想
furiosa-2.jpg

前回の軽い感想文を書いて以降、目にするマッドマックス評のほとんどが「ストーリーがない」「ノリだけの映画」「話がわかりにくい」などで激おこだったので、これがいかに物語と呼ばれるものの原型のような話であるかを書こうと思いました。
ソ連映画クラスタ的には「まずパラジャーノフ映画を3本観てからこれにストーリーがあるかないかを語れよ」の一言で済ませたいんですが、以下ざっくりとこの物語の構造を分解しましょう。



●英雄叙事詩としてのストーリー


ざっくり言って「出発して元来た道をまた戻った」というあらすじは、フュリオサをいわゆる英雄叙事詩、貴種流離譚の主人公と考えるとすんなり理解できるモチーフにあふれています。

冒頭、イモータン・ジョーの名代として近隣都市との貿易に出向くフュリオサ。彼女の首筋の焼き印からは「子産み女」候補として異民族から攫われてきた出自であること、そして(片腕こそありませんが)腫瘍などを持っていない、数少ない健常体の女体の持ち主であることがわかります。
彼女はその才能から戦闘・護衛の要職についていますが、いつ「子産み女」の立場に立ってもおかしくない存在です。重用されつつも中途半端な立場は古典的な物語要素における「王子」に当たるでしょう。公式説明において「ジョーの右腕」と称されるフュリオサは、同盟状態にあるガスタウンとの貿易交渉の成功によって今後の地位を固めていくことが推察されます。

そんな彼女はひそかに山岳地帯との交渉を行って脱出を試みます。行き先は彼女の生誕地であり、緑にあふれた 希望の象徴「グリーン・プレイス」。共に向かう仲間は希望に賭けた5人の女性たち。そして途中、ひょんなことから合流した、流れ者のマックス、戦争の道具とされているニュークスという男たち。異質な彼らの能力は彼女たちにないもので、戦いの中で同調した彼らに助けられ、道を示されてフュリオサは旅を進めます。

たどり着いた先でフュリオサは「鉄馬の女」たち会い、長い放浪の末に故郷へ帰ってきたことが知らされます。ただし緑に溢れた故郷はもうない。ゆりかごのように育んでくれた優しい土地はもうないことを悟り、彼女はここで「故郷を探す迷子」ではなく、「同志たちの今後の人生を負うリーダー」に変わることを余儀なくされます。
流れ者マックスの助言で、フュリオサは帰還を決意。鉄馬の女たちを引き連れて元来た道を戻ります。

帰路、壮絶な戦いの中でフュリオサは「父」なる王、イモータン・ジョーを殺害しますが、ここで彼女は生命にかかわる重傷を負います。マックスから手当と輸血を受けて生き返ったフュリオサは、砦へと凱旋。ジョーの死体を晒し、住人達に新たな王と認められ、砦を人々に解放します。彼女たちが生誕地から持ち帰った汚染されていない植物の種は、今後集落の存続に必要な「収穫」です。


■志を同じくする仲間との「異界への旅」
■異民族(山岳地帯)との交渉
■異世界の住人(マックス)との交流と共闘、助言の受け入れ
■故郷での生誕証明とイニシエーション
■「父」殺し
■異界の住人(マックス)の血を入れての生まれ変わり
■共同体への富(種籾)の提供

こうしてまとめていくと、フュリオサの旅にはイアソン、ギルガメシュ、オデュッセウス、倭建命、大国主命などの古典的英雄物語の要素が複合的に入っていることがわかります。フュリオサに助言を与え、また彼女たちにない能力でサポートしていくマックスはさしずめ王女メディアか須勢理毘売命といったところでしょうか。

また、これまで何度も逃げ出そうとしてきた不穏分子であるフュリオサがなぜジョーに重用されていたか、それまでジョーを妄信していた民衆がなぜラストで割れんばかりのフュリオサ・コールをするかというのも、「組織を成功させたければ最大の敵を身内に飼え」という言葉があるように、おそらく彼女の存在はそれなりにジョーへの不満を溜める勢力のガス抜きにされていたのではないかと考えると辻褄が合います。

火を噴くギターにしても、日本の特攻隊がモデルだといウォー・ボーイズを立ち止まらせずテンションを上げ続けるためなど、荒唐無稽に見えるギミックのほとんどは何らかの説明が成り立つ設定であることから、古典的なストーリーと非常に現実的な基盤に立って作られた作品であることがわかります。


●ストーリーの不可視化


それではなぜこの作品について「ストーリーが存在しない」という感想が成り立つのか。理由は大きく2つ考えられます。

一つ目に、キャラクターの属性によるレッテル貼りと説明セリフで結末までわかりやすく表示されるのが常態化しているメディアの影響が考えられます。
 本作は120分という上映時間にしてはおそろしいほどセリフが少なく、説明台詞を削る代わりに、木を見たことのないニュークスが樹木を指して「あのでっぱりが…」「木よ」「そう、木ってるもの…」と「木」を動詞として使ってしまうシーンなどで端的に世界観が示されます。非常に洗練された脚本ですが、慣れない場合爆音と息つく暇もない展開に観る側のチューニングが追い付かない面はあると思います。

二つ目に、この物語が極度に神話的、古典的であることが理由といえば理由でしょう。

神話的であるわりに、提供されるビジュアルやギミックが「火を噴くギター」「自分でエンジンに油を吹きかけてのスピード競争」「なぜか乳首ピアスのスーツ紳士」「口に銀粉吹き付けてテンション上げて自爆テロを決行する白塗り男子たち」などで、一般的にイメージされる神話的なるものと距離のあることが大きな理由だと思われます。マックス以外のほぼすべてのキャラクターの名前が古語から取られた役割そのままであることからも、世界観自体を大きな寓意ととることが可能です。

もっとも古くスタンダードな物語形式のひとつであろう 「神話」は、多くの人を楽しませる何かがあるからこそ現代にも伝えられてきたと言えます。その「神話」が新たな形で創造されるとき、それが「ストーリーは ないが楽しめる」と評価されるのは、何やら不思議なような、本来そういったものだったのかもしれないという灌漑もあります。


●見えることと見えないこと

さて、同じように、観た人によってストーリーのありなし判定が大きく分かれた作品を私たちは知っています。

高畑勲監督の『かぐや姫の物語』です。



この作品は芸術性については概ね高評価だったものの、ある一方では「巨額を投じて昔話を漫然と映像化しただけで中身がない、わざわざ映像化する意味がない」 と酷評され、またある一方では「繊細で想像性に富んだ表現」「現代にも続く女性の生きづらさを可視化した」とされ、一部で議論を生むほどの盛り上がりを見せていました。

私自身はこの作品にそれほどシンパシーを感じることはなかったのですが、高畑監督が「竹取物語(=竹取の翁の物語)」を「かぐや姫の物語」として組み替える際、膨大な時間をかけて原典を分解し尽くした上で現代的な要素を盛り込み、そのうえで台詞とキャラクターの動作を極限まで抽象化し再構築した結果、抽象度が高すぎて神話化してしまったように感じました。

この2作品に共通するのは、脚本レベルのテーマに大きく「多数派ではないものへの不当な扱いと、そこからの脱却」を入れていることでしょう。これを実感を持って感じているか否かで評価が大きくぶれていた印象があります。

孤軍奮闘し、怒りを抑えたまま最後は心を喪うことで逃げていくしかなかったかぐや姫に対し、同じく社会から零れ落ちていたマックス達男性と連帯し、世代や扱われ方の異なる女たちが集って怒りを表明していく『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の方が、ある意味とても実践的ではないかと思います。
怒りを表明しようとするたびに「大人として優しく話せ」「怒っても何にもならない」と怒りの芽が叩き潰される文化の中で、その抑圧がもっとも強くかかる女性として生きていると、どうしてもかぐや姫のようになってしまうところはあるのですが。


作品の楽しみ方は人それぞれで、私も『ズーランダー』をゲラゲラ笑いながら観ているときに「デレクの表情は何年ごろのスーパーモデルを風刺していて」等差し込まれたら「あ、そうすか、オッス」となってしまうとは思うのですが、同じように作品を絶賛し、別のアプローチで読み解い ている人に対して「頭をからっぽにして観れないで思想を見つけちゃってる人たちwww」といった揶揄をわざわざ入れて回ったり、あろうことか「女にはわからない男の映画」と言って評価したような気になっているのは(先日確認しましたがキネマ旬報の特集に小さくそういう記事もありました)観客としてナシだろうと感じています。

作者の手を離れた瞬間から批評は自由になると考えているのであまり「原作者の意図」を云々したくないのですが、本作において監督自身が「ストーリー上フェミニズムが必要になった」という発言をしている以上、そこを読み取る者を揶揄して回るだけではどうにも情けないのではないかと思います。


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Last updated  2016.01.05 11:53:42



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