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2006.08.13
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カテゴリ:ハワイ
ホクレア号

帰国後、池澤夏樹さんの『ハワイイ紀行』(ハワイは、
正確にはHawai‘i、つまりハワイイと発音します)を
読み、フラをおどる人、レイをつくる人、ハワイイ語を
はなす人、サーフィンで風と波と戯れる人、さまざまな
人が、それぞれの形でハワイイの文化を守り、育ててい
ることを知りました。

特に印象的だったのはホクレア号のエピソードです。

1995年2月、池澤さんは、ハワイイ島のロアで、南
へ4000㎞の位置にあるタヒティ島への1か月におよ
ぶ遠洋航海にむかう「ホクレア」「ハワイイロア」とい
う2隻のカヌーの出発式に立ちあいます。

カヌーといっても、太い材をくりぬいてつくった、長さ
が20m近い大きな双胴の、細くて長い二つの船体の間
に広い甲板を渡した形で、2本のマストに張った帆に風
を受けて走ります。

池澤さんは、ハワイイ諸島の島民は、どこから渡ってき
たのかと思いめぐらします。
「彼らには遠くから自分たちがこの島々へ渡ってきたと
いう神話的な記憶はあったけれど、それは非常に昔のこ
とで、遠い父祖の地との具体的な結びつきはもう消滅し
てしまった。それにしても、過去のある時期には、その
父祖の地との間に頻繁な行き来があったのではないか」

今日の学説では、太平洋諸島に住む人々は東南アジアか
ら来たと言われています。3万年前の氷河期、地表の多
くの部分は氷に覆われ、その分だけ海面は低い位置にあ
り、東南アジアからオーストラリアやニューギニアへは
徒歩で渡れました。この時に第1次の移民が進出。

この後、氷が融けて海面は90mも上昇し、多くの土地
が海によって他から切り離されました。約6000年前
、第二次の移民たちが東南アジアから東へ進出。この人
々は、ある程度の海洋航海の技術と舟を持ち、島から島
へと渡るだけの勇気も持ち合わせていました。彼らは、
4500年前にはニューギニアに達し、その1000年
後にはソロモン諸島、ニューヘブリデス、フィジーまで
展開しました。

紀元前1200年にはトンガ、サモアなどポリネシアの
西寄りの島々に人が住んでいたことがわかっています。
紀元前後にはポリネシア人はマルケサスやタヒティまで
進出。こうして人は太平洋の島々に広がり、紀元
1200年ごろには、南のニュージーランド、東のイー
スター島、北のハワイ諸島を結ぶ一辺が約8000㎞の
広大なポリネシアの三角形のほぼ全域を満たしていたと
のことです。

「海の真ん中の小さな島に住む人々は海に親しんでいる
。島から島へ望む時に渡れなければ、これらの島々での
生活は成り立たない。羅針盤や六分儀なしに海を渡って
生きてきた人々がたしかにいたのだ。彼らには彼らの技
術があったと考えなければならない。太平洋の各地に優
れたカヌーがあり、航海術に長けた男たちがおり、舟は
水平線の彼方にある島々の間を帆を張って行き来してい
た」

1973年にハワイイで結成されたポリネシア航海協会
は、古代風の遠洋カヌーを建造して、ポリネシアとの間
を往復することを決めます。この計画は、ハワイイ州の
アメリカ建国200周年記念事業に指定され、「ホクレ
ア」が造られます。ハワイイ諸島には、この種の船のモ
デルは残されていないので、喫水線下の形は、クック船
長が図面を残していたトンガ諸島とタヒティ島の遠洋航
海用の船に共通する形を採用。水より上は、ハワイイの
小型カヌーを模して作り、帆は、ポリネシア各地に見ら
れるマストとガフを狭角で配置するカニの鋏型を採用。
1975年3月に進水します。

「ホクレアとは、牛飼座のα、アルクトゥールスと呼ば
れる星の名。ハワイイ語で、ホクは星、レアは喜び。ホ
クレアは、7月のはじめならば夜の7時ごろ、ハワイイ
の真上を通る星。この星が頭の真上を通れば、自分たち
はハワイイ諸島と同じ緯度のところにいるとわかる。南
からやってきた者は、この星がだんだん高くなるのを見
て、自分たちがハワイイに近づいていることを知る。帰
路をたどる船にとって、ホクレアは故郷の星なのだ」

当面の目的は2つ。第1は「ホクレア」は帆走でハワイ
イからタヒティに行くことができるか。第2は、近代的
な航海術に頼らずにタヒティを見つけることができるか
。第1については、操船の技術は次第に向上し、少し強
い貿易風を受けると6ノット(時速11㎞)で走れるよう
になりました。第2については、ハワイイにはその人材
がなく、ポリネシア航海協会は、ミクロネシアのグアム
島の南、カロリン諸島に属するサタワル島で最も優秀な
航海士のひとり、マウ・ピアイルグを招聘しました。

17名の乗組員を乗せた「ホクレア」は、1976年5
月1日午後3時、マウイ島を出発しました。5月4日か
ら5日にかけてハワイイ島の東の沖合を通過すると、そ
の先は島影ひとつない大洋。

「マウ・ピアイルグのやりかたは総合的で、反射的で、
一言で言えば生きている。何日も曇りが続いて星も太陽
も見えなかった後で夜、一瞬だけ北極星が見えたとする
。それで彼は自船の位置を推測し、この先のコースを決
める。この広い海のどこかにいたことは確かなのだから
、曇りの間にどこを通ってきたかはどうでもいい。基本
になるのは星と太陽と風とうねりだが、雲や海鳥や海面
の色や燐光も大きな助けになる。彼は海全体を読んでい
るのだ」

北東の貿易風を受けて「ホクレア」は順調に南に向かい
、西に流れる北赤道海流を越え、東に向かう赤道反流を
越え、また南東の貿易風を受けて南赤道海流を越えて進
み、1か月後の6月1日には、初めての陸地としてマタ
イヴァ島を目視、3日後には目的地タヒティ島のパペー
テ港に到着。マウ・ピアイルグは、自分が知っている海
域をはるかに離れたところで、赤道を越えて北極星が見
えなくなるところまで行って、なおかつ目的地に船をぴ
たりと着けました。彼の航海術がただの経験則の暗記で
はなく、別の海へも応用のきく高度なものであることが
証明されたのでした。

しかし、航海中、乗組員がマウをあまり信用せず、彼に
とっては不愉快なことが多く、タヒティ島に着いたマウ
は「2度とハワイイには行かない」と言ってサタワル島
に帰ってしまいます。「ホクレア」は、近代的な装置を
使って進路を見つけ、ハワイイに戻りました。この帰路
の船に乗り組んだ1人がナイノア・トンプソンという
24歳の若者。半分ハワイイ先住民の血をひく彼は、自
分でマウの航海術を身につけようと決意して勉強をはじ
めました。

ナイノア・トンプソンは、ビショップ博物館のプラネタ
リウムなどを活用して、星の羅針盤を独学で学びました
。1978年には彼らだけの手によるタヒティ島への航
海が実行に移されましたが、オアフ島とモロカイ島との
間のカイウィ海峡で遭難。乗組員の伝説的なサーファー
のエディ・アイカウが助けを求めに「ホクレア」を離れ
、行方不明に。

1979年の晩春、ナイノアは、マウに会いに行き、お
互いの気持ちを確認。4か月後、マウはハワイイにやっ
てきて、星だけでなく、雲の読みかた、海面の色の見か
た、鳥、さまざまな知識をナイノアに伝えたのでした。

1980年、ナイノアは、航海士としてハワイイ~タヒ
ティ往還に成功。1985年~1987年には、タヒテ
ィ島を経て、クック諸島、ニュージーランドのアオテア
ロア、トンガ、サモアへ。1992年にはクック諸島の
ラロトンガ島へ航海し、ポリネシア人の結束と伝統文化
の復興のためにポリネシア全体からたくさんのカヌーが
集まって開催された第6回パシフィック・アーツ・フェ
スティバルに参加。そして今回(1995年)の航海では
、21日という最短記録を作ってタヒティ島に近いライ
アテア島に到着。ここでニュージーランドのカヌー1隻
、クック諸島からのカヌー2隻と合流してタヒティ島へ
。ハワイイ島からタヒティ島に入った「マカリイ」も到
着し、タウティラ港に6隻のカヌーが集結。

「ポリネシアの多くの島がそれぞれ遠洋航海に耐えるカ
ヌーを持つようになったきっかけは、やはり何回にもわ
たる「ホクレア」の大航海であり、それに触発された太
平洋航海ルネッサンスとも呼ぶべき大きな運動だった。
いくつもの島が自分たちでカヌーを造っただけでなく、
伝統航法の技術を持つ者を養成した。ホノルルに設立さ
れたポリネシア航海協会の意図は全太平洋に広がったの
である」

6隻のカヌーがオアフ島に到着した5月11日の翌日、
池澤さんは、ホノルル港で乗組員に話を聞きます。航海
にとっていちばん大事なのは何だと思う?という問いに
テリー・ヒーは「みんなの気持ち。今度の旅がよかった
のはクルーの気持ちが本当にひとつになっていたからだ
よ。こういう時っていうのは、誰もが自分から動く気持
ちでないと駄目なんだ。先に立って仕事をするっていう
姿勢だね。みんなにそれがあると気持ちのいい航海にな
る」

その翌日、6隻のカヌーを出迎える儀式がホノルル空港
に隣接するケエヒ海浜公園で開催。砂浜に並んだ乗組員
たちは、迎える側の屈強な若い男女と対峙します。双方
は交互に大音声で呼ばわり、腕を振り上げ、硬い木を削
って作った槍を擬して、それぞれの力を誇示。上陸する
側は、自分たちは礼儀正しい歓迎に値する優れた者だと
言い張り、迎える側は、ここはつまらぬ者の上陸を許さ
ない立派な土地だと唱えます。この擬闘を経てはじめて
、遠来の客は客として迎え入れられ、心のこもった歓迎
を受けるのです。

まず、マウ・ピアイルグが英語とサタワル語でスピーチ
。「アロハ。この場にこんなに集まってくれたみなさん
にありがとうと言います。航海の技術がもう一度生まれ
なおして、私たちは幸福です。この技術を受け継いでく
れる若い人々がいるのはとても運のいいことです。これ
からも子供たちに技術を教えて、この先この技術が二度
と死ぬことがないようにしていきたいと願います。あり
がとう」

次に、ナイノア・トンプソンが演壇に立ちました。
「自分たちが信じていたことを実現できたのは嬉しいが
、そのためにたくさんの人々の力を結集できたことはも
っと嬉しい。たくさんの人々の力でここまで来られたと
思うと、自分自身はどこまで謙虚になってもなりすぎる
ことはないと思う。先祖たちの誇りと自負を受け継ぐこ
とができたのは我々みんなが協力したからだ。その分だ
け我々は、少しばかり強くなったと思うし、それだけ健
全な共同体を作れるようになったとも思う。伝統を蘇ら
せるのは大事だが、それを教育によって次の世代に伝え
るのはもっと大事だ。未来への長い航海を担う若い人々
を育てること、それを可能にする健全な共同体を維持す
ること、それがこの航海の本当の目的ではないか。この
カヌーに乗ってゆく次の世代が育ってくれるのをぼくた
ちは見守りたいと思う。マハロ」

池澤さんは書いています。
「ハワイイは一方ではアメリカ合州国の一つの州である
が、他方ここはいつになっても間違いなくハワイイとい
う名の土地である。アメリカの一部であることよりも、
かつてハワイイ人が住んで優れた文化を維持していた場
所、大勢の移民の流入にもかかわらず今もその伝統を受
け継いで次代に伝えようとしていること、そちらの方が
大事なのではないだろうか。カヌーと伝統航法はその象
徴だから、ナイノアはそれを体現する人物だから、この
日の催しにこれだけの人が集まった」

2007年1月、「ホクレア」は、ホノルル港を出発し
、マウ・ピアイルグが住むサタワル島などミクロネシア
の島々を経由して、4月~5月に日本の各地を訪れる予
定とのこと。

ハワイイ紀行完全版





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Last updated  2019.05.16 02:36:39
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 Re:アロハ・フロム・ハワイ(   背番号のないエース0829 さん
「堂々と公演 !! ~ 沖縄県立八重山農林高校・郷土芸能部 ~」に、上記の内容について
記載しました。
もしよろしかったらaccessしてみてください。


(2020.10.30 14:58:25)


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