349015 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

こんにちは♪ ス~ジ~です♪ 

こんにちは♪ ス~ジ~です♪ 

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Freepage List

Favorite Blog

愛聴図鑑 ベストヒットさん
エデンの南 SEAL OF CAINさん
レコードとCDの出… ざと9901さん
ペガサスノート アヴィニョ〜ンさん
ガムザッティの感動… gamzattiさん
BEST-ONE 夏旅行計画さん
安達久美 club PANGA… A・K管理人さん
愛のチューリップ劇場 amadeusjapanさん
高須基仁の"百花繚乱… mot's高須さん
我が道を行く・・・ a tempoさん

Comments

 背番号のないエース0829@ Re:アロハ・フロム・ハワイ( 「堂々と公演 !! ~ 沖縄県立八重山農林…
 mikamieiji@ 先程の話に就いて 先程の話を読ませていただきましたが、最…

Keyword Search

▼キーワード検索

2007.03.22
XML
テーマ:韓国!(16921)
カテゴリ:韓半島
半跏思惟像

道高パラダイスホテルの朝食もアメリカン・ブレックフ
ァスト。私たちは、韓国料理の朝食を体験できませんで
した。

4日目に訪問した公州(コンジュ)と扶餘(プヨ)は、百済
(ペクチェ)の都が置かれたところです。韓半島の西南部
に約700年間にわたって栄えた国・百済は、飛鳥時代
の日本に仏教を伝えるなど、日本の文化の発展に大きく
貢献した国です。

公州へむかう道路ぞいには、ずっとオレンジ色のコスモ
スの花が咲いていて、とてもきれい。そのむこうの水田
は、稲刈りの真っ最中で、地面に広げた布の上に刈りと
ったモミを並べて乾燥させていました。

公州では、武寧王陵(ムリョンワンヌン)を見学しました
が、私は前夜の唐辛子で真っ赤な鍋料理のせいか、おな
かの調子が悪く、一行が見学を終えて出てくるまで、ト
イレのなかで過ごすことになってしまいました。おみや
げ屋さんは、修学旅行の学生たちでいっぱい。女子学生
はみんな、よく笑います。武寧王陵を背景に記念写真を
撮るとき、一緒に写真に入ってもらいました。

扶餘へむかう間、ゆったりと流れる白馬江(べンマガン)
を眺めながら、ガイドさんは、百済王朝滅亡の物語を語
りはじめます。

韓半島では、西暦300年代の後半から、百済、高句麗
、新羅の三国時代に入りました。三国は、戦国の時世な
らではの不思議なかけひきを繰り返しながら、約300
年間にわたり、一定の均衡状態を保っていました。その
均衡が崩れたのは660年、新羅が唐と結んで、百済を
滅ぼしたときでした。

百済の始祖は、現在の中国の東北地方・吉林省の一帯を
原郷とする扶餘族の出身で、漢城(現在のソウル)に王都
を置きますが、高句麗の攻撃に耐えきれず退却を余儀な
くされ、475年には王都を熊津(現在の公州)に移しま
す。

私たちが訪れた王陵の主・武寧王は、501年に第25
代の王位を継ぐと、高句麗を攻撃して、百済の領土を拡
大。これを認めた梁(中国)の武帝は、武寧王に使持節都
督百済諸軍事・寧東大将軍・百済王の称号を与えました
。しかし、523年に武寧王が亡くなり、その子・聖明
王が即位すると、国力は再び衰え、537年には王都を
泗ビ(現在の扶餘)に移します。

641年、第31代の王位を継いだ義慈王は、雄雄しく
、勇ましく、胆力があり、決断力があり、642年7月
、自ら兵を率いて新羅を攻めて、40余の城をおとし、
初陣に見事な勝利をおさめ、百済の士気は一気に高まり
ます。

しかし、新羅でも、後に統一新羅の礎となった金ユ信将
軍が頭角をあらわし、百済と新羅の戦いは一進一退の戦
況が続くようになり、651年、新羅の真徳女王が、唐
の太宗に百済との講和を上奏すると、太宗は使臣を百済
に遣わし、停戦を命じたのでした。

このころから義慈王は、酒に時を過ごすことが多くなり
ました。宮人とともに宮女をはべらせ、耽楽し、酒飲を
楽しみ、政務はとどこおりました。王の生活は日に日に
乱れ、ひどくなっていきました。もともと百済人は、軍
は得意ではありませんでした。文化的な素質に優れ、文
化人や芸術家が多く、軍上手な武人には恵まれませんで
した。

660年3月、唐の13万の大軍が海路を百済に出発。
一方、新羅は、武烈王と金ユ信将軍に率いられた精鋭5
万が陸路を百済に出発。海と陸から唐と新羅の両国に挟
み撃ちにされた百済は、もう打つ手を失っていました。
7月18日、百済の義慈王は、太子を連れて逃れていた
熊津城から出て、降伏。温祚王が建国して678年間続
いた王朝の幕が下りました。義慈王は、唐に連れていか
れ、まもなく病死。扶蘇山の王宮に仕えていた3000
の宮女は、王宮が焼かれたとき、敵に捕らわれて辱めを
受けたくないと、西端の絶壁から白馬江に身を投じて、
百済とともに散っていきました。その絶壁を、後世の人
が、白馬江に身を投じた宮女を花にたとえて「落花巌
(ナクァアム)」と名づけました。

一方、国は滅んでも再起をかけて戦う百済人は、倭国に
滞在していた義慈王の王子・扶餘豊を王に迎え、高句麗
と倭国に援兵を請います。倭国は、これに応えて兵を送
り、白馬江の河口・白江で扶餘豊の兵と合流。海では、
倭国の兵が唐の水軍と戦い、陸では、新羅の軍隊を相手
に扶餘豊と倭国の連合軍が戦いますが、大敗。多くの百
済の将兵が倭国の軍船で日本に渡ってきたと『日本書紀
』は伝えています。やがて、唐・新羅連合軍は高句麗も
滅ぼし、韓半島は統一新羅時代を迎えます。

扶餘では、1993年8月6日に移転オープンしたばか
りの国立扶餘博物館を見学。百済の文化は、すべて消滅
したと聞かされていましたが、古墳、寺院跡、城跡、王
宮跡、瓦窯跡などから発掘されたものが、これだけあっ
たのかと感激。青銅器時代の土器、石器、銅器、銅剣、
銅鏡、銅鐸などからは、私たちが住む静岡の登呂遺跡の
源流・日本古代文化の源流がここにあることが実感され
ました。百済の美術は丸みをおびたデザインに特徴があ
るとのことで、三国時代の壺、装身具、金銅製・石製の
仏像や菩薩像、蓮の花をかたどった瓦、鳳凰・龍・鬼な
どを優美に表現したレリーフなどに日本人の美的感覚と
の共通性が強く感じられ、私は限りない愛着を覚えまし
た。開館記念として、日本の高松塚古墳や藤ノ木古墳の
出土品も参考展示されていて、百済と古代日本との交流
を再認識できました。

特に、私が惹かれたのは、韓国の国宝83号に指定され
ている金銅三山冠半跏思惟像でした。国立扶餘博物館に
展示されているのはレプリカで、本物には翌日、ソウル
の国立中央博物館で対面することになるのですが。半跏
思惟像の高さは93.5㎝。私の目の前に、3面が丸い
山模様の冠をかぶった、その人が、右足を左足にのせ、
その右足の足首に左手をのせ、右足のひざに右手のひじ
をのせ、右手の人差し指と中指をそっと頬にあてて、微
笑みながら瞑想にふけっているように感じられるのです
。上半身は薄い布を着けているのか、ほっそりと美しい
丸みをおびた肉体を見せ、胸元に2本の首飾りをしてい
ます。下半身をゆったりとおおっている服は美しい襞を
描き出し、左足は蓮の花をかたどった台座を踏んでいま
す。

まず、思ったのは京都・太秦の広隆寺に伝わる弥勒菩薩
半跏思惟像にそっくりだということです。奈良の中宮寺
の弥勒菩薩半跏思惟像にも似ています。わが国を代表す
るこの2つの半跏思惟像が木造であるのに対して、
1920年代に慶州で発見されたと伝わる、この三国時
代の半跏思惟像は金銅製であるにもかかわらず、そこに
、その人がいるような温かみを感じさせるのに驚きまし
た。私は、あこがれの人にやっと出会えたと感じ、その
人の前にいつまでもたたずみ、相対していたいと感じま
した。その人の前から立ち去りがたかったことをいまで
も覚えています。そして、その人は、私がこうありたい
というイメージを形象化した人として、私に影響を与え
続けています。

博物館を出ると、お昼。扶餘の食堂で参鶏湯をいただき
ました。大邱の桐華寺の近くの食堂とは異なり、今度は
、鶏の腹のなかにおかゆが入っていました。

バスは、いよいよソウルにむかいますが、ソウルでの話
は次回に譲ります。ここでは、私の韓国旅行の後で起こ
った、古代の日本列島と韓半島との交流に関する、二つ
の出来事を紹介したいと思います。

ひとつは、天皇陛下が2001年12月18日のお誕生
日に際して記者会見された際、記者の「世界的なイベン
トであるサッカーのワールドカップが来年、日本と韓国
の共同開催で行われます。開催が近づくにつれ、両国の
市民レベルの交流も活発化していますが、歴史的、地理
的にも近い国である韓国に対し、陛下が持っておられる
関心、思いなどをお聞かせください。」との問いに、次
のように答えられたことです。

「日本と韓国との人々の間には、古くから深い交流があ
ったことは、日本書紀などに詳しく記されています。韓
国から移住した人々や、招へいされた人々によって、様
々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の
中には、当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め、今も
折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化
や技術が、日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度
によって日本にもたらされたことは、幸いなことだった
と思います。日本のその後の発展に、大きく寄与したこ
とと思っています。私自身としては、桓武天皇の生母が
百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されている
ことに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本
との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招
へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明
王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。
(後略)」

なぜ、523年に百済で亡くなった武寧王の子孫が日本
にいて、794年に平安京を創る桓武天皇を生んだので
しょうか。武寧王の父・蓋鹵王の時代、百済は高句麗の
攻勢を受けて、退却を余儀なくされており、蓋鹵王は、
倭国の支援を受けるため、自分の弟の昆支を、妊娠して
いた自分の妻と結婚させて、倭国の大王(天皇)のもとに
送りました。その途中、筑紫の各羅島で生まれた男児が
後の武寧王で、百済に送り返されました。蓋鹵王の弟の
昆支は、倭国に滞在して5人の子どもが生まれたと伝え
られており、武寧王の子・淳陀も、514年に倭国で死
去したと伝えられています。義慈王の王子・扶餘豊も日
本に滞在していたことを考えあわせると、当時、百済の
王族が多数、倭国に滞在していたと推測できます。
663年、百済救済の倭国軍が唐・新羅軍に白村江で撃
破されると、その王族を頼って、多くの百済の将兵が倭
国に渡ってきたのでした。また、桓武天皇が都を遷した
山城国は、古くから韓半島からの渡来人・秦氏(新羅人)
が住みついていた土地でした。

もうひとつは、2007年1月20日に行われた大学入
試センター試験の日本史Bの第1問に、ソウルの国立中
央博物館の金銅三山冠半跏思惟像と京都の広隆寺の弥勒
菩薩半跏思惟像の写真が並べて掲載され、このふたつの
仏像の歴史的背景が次のように述べられたことでした。

「図1・2を見てみよう。いずれも7世紀に制作された
と考えられる有名な仏教彫刻である。現在、図1の像は
韓国ソウルの国立中央博物館、図2の像は京都の広隆寺
で、それぞれ所蔵・公開されている。両者がとてもよく
似ているのは当時の東アジアの歴史が関連しあって推移
していたからだろう。また図2の像は、日本の伝統文化
や歴史を再評価しようとする動きのなかで、近代に至っ
て真っ先に注目された。なお二つの像は、両国でそれぞ
れ国宝に指定されている。」

私は、二つの仏像が生まれた時代をこんなふうにイメー
ジします。仏教は、はるかインドから、シルクロードを
通って紀元前2年に中国に伝わり、やがて政治的色彩を
帯びて、4~5世紀に韓半島の三国に伝わりました。そ
して、韓半島から6世紀の倭国に伝わりましたが、天地
の八百万神を四季ごとに祭ってきた大王(天皇)と物部氏
と、新しい文明・技術とともに仏像礼拝を広めようとす
る蘇我氏との間で、しばらくの間、争いが続きました。

そんな時代に、韓半島から渡ってきた仏師の手によって
、1本の赤松材から彫り出された弥勒菩薩半跏思惟像は
、仏教に深く帰依した聖徳太子の手を経て、山城国の秦
河勝に渡り、広隆寺で礼拝されるようになったと伝えら
れています。蘇我氏が建立した飛鳥寺の釈迦如来座像に
くらべて、これら二つの仏像は、私たちに親しみやすく
、瞑想にふけるブッダその人を生々しく感じさせます。
仏教が生まれて数百年後に、ブッダの思想をしなやかな
形で表現する仏像が韓半島で生まれ、日本列島への仏教
伝来の最初の使節となり、その美しい思想を伝えてくれ
たことは、しあわせな出来事だったと、私は改めて感じ
ます。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2022.07.23 01:45:03
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.