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2009.10.25
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カテゴリ:日本の城と城下町

信貴山朝護孫子寺について、4回連載してきたが、城フリークとして、また茶の湯を志す者として、忘れてはいけないものがある。それは、信貴山山頂に本丸を持つ、信貴山城址。そこは、室町幕府の末期、織田信長が上洛するまで、畿内(近畿)における実力者であった、松永久秀の居城址である。(右写真:本丸址に立つ城址の碑)

その松永久秀と言えば、梟雄(きょうゆう)。宣教師ルイス・フロイスが書いた『日本史』の中にも、松永霜台(そうだい)こと久秀のことを、「その知力と手腕によって自ら家臣であるにもかかわらず公方様と三好殿をいわば掌握してしまいました。すなわち彼ははなはだ巧妙、裕福、老獪でもありますので、公方様や三好殿は、彼が欲すること以外なにもなし得ないのです。」と、記されている。

時代は下克上。松永久秀は、14代足利将軍義輝を殺害し、主君、三好長慶(ながよし)一族を葬り、東大寺大仏殿にも火を放つ。そして、畿内の統治者となる。そして、当時、繁栄を極めた自由都市堺は、まさにお膝元。それは、千利休が生きた時代でもあり、三好長慶が開いた南宗寺(関連ブログ)を中心に、茶の湯も盛んだった時代である。

そんな時代、松永久秀、自慢の名器の一つが、「平蜘蛛(ひらぐも)の茶釜」。茶道具が政治的な取引や駆引きにも力を発揮した時代、千金積んでも手放さないとされた秘蔵の「平蜘蛛の茶釜」は、まさに松永久秀の欲望と権力の象徴だったとも言えようか。

三浦綾子さんの小説『千利休とその妻たち』の中で、利休の後妻となる、美しき女性"おりき"に執心した久秀が、「平蜘蛛の茶釜」と引き換えに譲って欲しいと、利休に迫る場面がある。その垂涎の釜をちらつかされつつも、「おりきは平蜘蛛の釜の価しかしない女でござりますか」と、梟雄久秀に凄む利休、その場面は印象的である。

しかし、久秀が畿内を治めた時代も長くは続かず、信長が15代足利義昭を奉じて上洛すると、その軍門に下る。そして所謂、名物狩りで、名器と名高い茶入れ、『九十九髪茄子(つくもなす)』を信長に献上すると、大和国を安堵される。しかし、信長が石山本願寺と雑賀(さいが)衆に手こずると、反旗を翻すのである。

再び、畿内を自らの手にと思ったであろう、久秀であったが、結局、信長に攻められると、信貴山城に篭城。そして、攻める明智光秀、細川幽斎(関連ブログ)に、「平蜘蛛の茶釜」と引き換えに恭順を促されるのだが、死んでもそれを離すことはなかった。久秀は、「平蜘蛛の茶釜」と共に、自爆し、信貴山城も落城するのである。

背景が長くなってしまったが、仲秋茶会を楽しんだ朝護孫子寺での時間、実はその日、信貴山城址を訪ねることはなかったのである。しかし、訳あって、日を改めて、再び朝護孫子寺を訪れると、家内を境内に残して待たせると、一人で信貴山山頂を目指し、駆け上がったのである。「600m20分」と標識に書かれた九十九折の坂道を、一気に駆けること10分。空鉢護法堂(くうはつごほうどう)のある山頂に辿り着いた。

前回、ここでも述べた、信貴山縁起絵巻にある第一巻『飛倉巻』に由来する、空鉢護法堂。そこにある竜王の祠は、命蓮上人が教えを蒙った竜王。空鉢を飛ばして倉を飛び返らせ、驚き嘆く長者に慈悲の心を諭して福徳を授けたという出来事に由来するという。そこに至る参道、無数の赤い鳥居を、一体いくつ、くぐったものか、それはかなりの数であった(下左)。

        信貴山城址からの眺め

空鉢護法堂からの景色(上右)は、大和と河内、その両国を手中に治めた、松永久秀も臨んだ景色でもあろう。その空鉢護法堂を少し下ったところ、当時本丸だったという山頂の地には、信貴山城址と記された石碑が一本(冒頭写真)と、説明板が立っていた。その説明によると、信貴山城の規模は、標高433mという地にあって、東西550m、南北700m、郭の数120以上というので、凄まじい。

松永久秀の野望の跡は、現在でも、その遺構として、空堀の切り通し堀、土塁、門等の城郭跡を良く残しているという。しかし、秋の日差しを浴びた、明るい信貴山山頂に、平蜘蛛の茶釜と共に爆死した久秀の野望、その歴史と遺構が残されていようとは、とても想像に難い思いもするのであった。






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Last updated  2009.10.26 23:46:42
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