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2010.10.18
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カテゴリ:日本の城と城下町
金沢城の顔と言えば石川門。そして、櫓から城壁に至るまで、張り巡らされた海鼠壁(なまこかべ)。それは、一種の造形美でもある。そして、22年ぶりに訪れた金沢において、私が最も再会を切望していたのも、金沢城石川門だったのだが、予想外の現実に面食らう。

最後に金沢城を訪れてから22年、その間、これほどまでの大きな変化が起こっていたことを実は私も予想していなかった。というのも、当時、金沢城の敷地内には金沢大学があり、兼六園からのアクセスとなる石川門も金沢大学の正門になっていたのだが、今ではその大学も移転し、城内もすっかり整備されていたからである。当時、石川門からは自転車に乗った学生が出入りするのを目にし、また門の先も大学であるだけに、遠慮がちに城内に入って、歩いたことを記憶している。

金沢城の中にあって、重要文化財として残る遺構が、石川門と三十間長屋。当時、その三十間長屋を見るために、大学構内を歩き、漸く辿りついてカメラに収めると、足早にそこを去ったものであるが、現在ではそんな気兼ねは不要である。石川門を城内に入ると、三の丸が広がり、その先に再建された河北門、そして内堀には、菱櫓・五十間長屋・橋詰門続櫓と、これまた再建された建築群が影を落とす(右上:橋爪門続櫓と太鼓塀、出狭間)。それらはまさに完璧なまでの建築美である。(下:河北門から臨む復元櫓群)

     金沢城河北門からの菱櫓五十間長屋

金沢城の復元整備を見ると、昨夏、熊本城に見た、建造物群の復元を思い出さずにはいられないが(関連ブログへ)、今後、どこまで復元されるのか興味深い。特に、金沢城については、明治以降、陸軍が、そして戦後は金沢大学が置かれたことで、熊本城や大阪城のように広大な城郭として公開されていなかった歴史的背景もある。そのため、長きに渡り、石川門だけが金沢城の顔としてクローズアップされており、今の整備された状態さえ、私には大変な驚きとして目に映ったのである。

金沢城の起源は、大阪城が石山本願寺の地に建てられたように(関連ブログへ)、加賀一向一揆の本願寺の拠点、尾山御坊の地に建てられたもの。そこに前田利家が入り、建てられた天守閣はすぐに焼失し、以後、再建されることはなかった。その復元は、現在のところ想定されていないようだが、遠い将来、それも有るかもしれない。小高い丘に、重なる石垣、そこに海鼠塀が走り、さらに白壁と海鼠塀の櫓や天守閣が聳えるその光景は、想像するだけでも秀麗、そして壮観である。

さて、金沢城のシンボル、石川門であるが、兼六園を出て、目の前にした光景に、我が目を疑う。というのも、そこで目にしたのは、二重櫓の美しい姿ではなく、修復工事の足場とシートに覆われた無残な姿だったからである(下左)。表門(下中)と櫓門(下右)は無事だったが、完全な石川門を見ることが出来なかったことが、唯一の心残りである。

金沢城石川門






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Last updated  2010.10.21 22:56:17
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