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カテゴリ:日本の城と城下町
薩摩焼、萩焼、唐津焼、...。それら日本を代表する焼き物の歴史の起源が、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にあり、その時、日本に多くの朝鮮陶工が連れてこられたことから、別名"焼き物戦争"と言われている。そして、その戦争の拠点となったのが、佐賀県は唐津市鎮西町にある、名護屋城である。 このGW、鹿児島に帰省した前後に、福岡と佐賀を訪れた私にとって、この名護屋城址を訪ねることは、城フリークとしての長年の想いであり、従って、旅の一つのクライマックスでもあった。それが叶ったのは5月1日、この日の霞んだ空が黄砂の影響と知る術もなく、博多より車を走らせた私達が、ついに秀吉の無謀なる野望の地、名護屋城址に足を踏み入れたのは、その日も午後2時になろうとするころ。(右:城址大手口に残る石垣と石碑) 築城当時、大坂城に次ぐ規模を誇ったという名護屋城は、今では大きく石垣が崩れて土が露出した場所も多々見られたりもするが、近年のことだろう、非常に整備が進んでいて、当時の威容を連想するには、十分に見ごたえのある城址だった。また城址に建てられた博物館では、あらためて秀吉の朝鮮出兵の歴史を学び、名護屋城を中心とする半島全体が全国各地の大名が陣を構える一大要塞となっていたことを知ると、また歴史のロマンを掻き立てられるものである。 博物館内に再現された、名護屋城の往時の姿。5層の天守閣を中心に、広大な本丸と二ノ丸には御殿を構え、三ノ丸、さらには遊撃丸、弾正丸、山里丸、と曲輪(くるわ)が取り囲む、立派な城郭は、朝鮮半島への前線としての、豊臣秀吉の威信の現れ。そして、それから400年以上が経った今、整備された城址を歩くと、そこに見る石垣や崩れ落ちた巨石から、往時の姿も甦ってこようというものである。 この日、名護屋城址に滞在した時間は約3時間。爽やかな陽気と、涼しい海風が肌に心地よく、ふだんは城歩きに難色を示す家内も、私と共に小高い丘に築かれた城址をアップダウンし、殆どの曲輪を歩き通した。秀吉の野望が、遠く西海の地に築かせた、肥前名護屋の一大城郭、その地を踏みしめた記憶をここに振り返ってみよう。 (左:大手口に残る石垣、その先は東出丸の石垣。まるで沖縄の城のように明るい。右:緑に覆われた三ノ丸。) (左:三ノ丸から馬場を臨む。右:三ノ丸から本丸へのアプローチ。) (左:天守台を右手に遊撃丸を見下ろす。右:本丸に立つ石碑、手前は本丸御殿跡、左手に天守台。) (左:水手口石垣の上には何と民家らしき建物が。右:二ノ丸の石垣、奥右手に遊撃丸石垣。) (左:遊撃丸より天守台を見上げる。右:搦手口上より馬場の石垣。) (左:搦手口石垣。右:台所丸石垣。その先に今でも水を湛える太閤井戸があった筈なのだが、この時それを気付かず。) (左:山里口の石垣。右:幾重にも石垣が重なる山里口。下は今回の旅の友、プリウス。) 以上、城址歩きのハイライトを整理してみたが、それでも見落としがあったことに気付くと残念なところ。車を走らせながら、カーブを横目に見た北山里丸への登り口石垣。そこで感じた、旧き城址風情には、近くに車を止めて、石段を駆け上がりたかったところ。後で調べると、その先には、側室広沢の局を祀る広沢寺というお寺があり、朝鮮出兵ゆかりの大ソテツがあったとのことで、それが唯一の心残り。 それでも、当初、見落としていた山里口を最後に訪ねることが出来たのは幸いで、それも博物館でその威容を知ったからこそのこと。その山里丸の名は、大坂城の山里丸を再現しての命名だったろうか(関連ブログへ)、その立派な石垣は、秀吉が誰にも邪魔されずに、茶の湯に勤しむべく、寄せ付け難いものとしたのだろうか。 今となっては、かつてその地に全国から大名が集まり、朝鮮出兵の最前線として、海上遥か、朝鮮に睨みをきかせていたとは、とても想像できないほどの長閑な場所である。その落差が、この日、私を名護屋城址の虜にさせたのかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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