反応閾値について
反応閾値のこと1 飲み会のこと 反応閾値との考えがある。刺激量に対して反応する感度のことである。刺激が少なくても反応する人と刺激の量が多くてもそんなに反応しない人がいる。反応閾値が高いと反応しにくいとのことになる。 私は父親に『ただ酒は飲むな。公金で飲むな』と教えられた。ですから公金を使っての飲み会の反応閾値は低い。ただ酒を飲むのはとても気が引ける。ところが公金やただ酒を飲むことは自分のステータスが上がったと感じる人もいる。このタイプの人は公金やただ酒を飲むことに無上の喜びを感じるようである。この差は大きいと私は思う。 バブル時代でうまい汁を吸うことが出来た世代は概ねただ酒が好きのようだ。また、年金もたくさんもらっている。私は今の時代の格差は世代格差の問題が大きいと思う。その世代格差は飲むことへの反応閾値の違いにも関係しているのかもしれない。 インターネットより参照 ※ある刺激に対して行動を起こすのに必要な刺激量の限界値のこと。例えば、きれい好きな人とそうでない人がいたとしよう。きれい好きな人はほんの少しでもほこりがあると許せないからすぐに掃除を開始する。これは「汚れ」という刺激に対して反応閾値が低いことを意味する。一方、汚くても大丈夫な人は反応閾値が高いため、何もアクションを起こさない。要はフットワークの軽さということ。閾値が低けりゃ多動症、高けりゃ怠け者というとわかりやすいか。 反応閾値のこと1 ゴミのこと 反応閾値との考えがある。刺激量に対して反応する感度のことである。刺激が少なくても反応する人と刺激の量が多くてもそんなに反応しない人がいる。反応閾値が高いと反応しにくいとのことになる。 道路に空き缶やタバコの吸い殻を捨てるのが平気な人もいる。捨てないけれど気にならない人もいる。気にして拾う人もいる。空き缶やタバコの吸い殻については反応閾値を低くしてもらいたいものだ。またそうした教育をすることが大切だと思う。広辞苑よりいき‐ち【閾値】ある系に注目する反応をおこさせるとき必要な作用の大きさ・強度の最小値。生体では感覚受容器の興奮をおこさせるのに必要な最小の刺激量。しきいち。限界値。 インターネットより参照 ※ある刺激に対して行動を起こすのに必要な刺激量の限界値のこと。例えば、きれい好きな人とそうでない人がいたとしよう。きれい好きな人はほんの少しでもほこりがあると許せないからすぐに掃除を開始する。これは「汚れ」という刺激に対して反応閾値が低いことを意味する。一方、汚くても大丈夫な人は反応閾値が高いため、何もアクションを起こさない。要はフットワークの軽さということ。閾値が低けりゃ多動症、高けりゃ怠け者というとわかりやすいか。 反応閾値のこと2 いわゆるゴミ屋敷のこと ゴミ屋敷で悪臭が漂うことを苦にしない人もいる。これはゴミや悪臭に反応閾値がとても高い(鈍感)であるのだろう。個人の自由と思われるが、私は違うと思う。地球は回転することによって生命は維持されている。回転しているから風も吹く。悪臭は隣に行くし、古タイヤや拾ってきたであろう鍋やポリ缶からはボウフラが出て、蚊が発生して地域の迷惑となる。 環境権を憲法でも明記し、他人の環境権を侵す権利はないことをはっきりさせるべきであろうと思う。水俣病やPM2.5なども環境権の侵害である。 反応閾値のこと3 騒音問題 音に対する反応閾値の違いもいろいろと問題となる。平島公園で夜中に花火をして、大きな音をさせても平気な若者(馬鹿者かな?)もいる。やはり夜は極端な騒音は問題となる。 反対に昼間、平島公園で乗用式芝刈り機で草取りをしていたら、『昼寝の邪魔』と文句を言われたことがあった。昼間はある程度仕方がないでしょう。 反応閾値の違い4 難聴と耳鳴り 試して合点のテレビで面白い話があった。年をとると高音部から聞こえが悪くなるという。高音部が聞こえなくなると視床がそれを感じてとても敏感になる。(反応閾値が低くなる)敏感になった結果、脳の中の微弱電流を音として感じてしまい、耳鳴りがするのだということだ。耳鳴りの治療に補聴器で高音部を大きくしてあげると視床(たぶん視床下部のことかな)の反応閾値が高くなり、耳鳴りがなくなるというものだ。 そろそろ私も耳が遠くなる年なので考えておく必要があると思った。今のところ大丈夫ですが。 反応閾値の違い5 痛み 痛みはかなり主観的なものである。痛みに敏感でちょっとしたことでも大騒ぎをする子どももいますし、そうでない子どももいます。松の木から落ちて腕を骨折したのですが、『この松の木に登るな』と私に言われていたので、我慢をして黙って帰った子どももいます。反対に『痛い。痛い。』と喚くので骨折かと思ったらたんなる打撲のこともあります。保護者には『お子さんは喚くタイプ?我慢タイプ?』と確かめるようにしています。 私自身は痛みに鈍感で、教員で臨時講師をしていた時に足を骨折しましたが、痛みよりも仕事がなくなるのではとの思いが強くありました。同僚の先生に『骨を折りました』と告げましたが、『骨を折ったら、そんな顔はしていられない』と放置されたことがありました。 1ケ月の入院生活でした。 反応閾値の違い6 基本は自分であることの自覚 痛みにしろ、清潔度や騒音問題にしろ、基本はその人の主観的な感じ方であることを自覚しておくことも必要であると思う。まずは自分の感じ方があり、相手の感じ方があり、ある程度社会的・客観的な尺度が出来上がってくる。自分の反応閾値がどんなであるかを基本にして、しかもある程度自分を客観視することが必要であると思う。 私は痛みに鈍感だ。でも他の人はそうでないかもしれない。音や清潔度やまた賞味期限などの問題もいろいろな考え方があると思うことが必要だと思う。 反応閾値の違い7 きれいなのが好き? 清潔できれいなのが好きだといって、自分の家はきれいにしたいので、他人の家の前や公共の公園や道路などに犬の糞を放置していく人がいる。これは犯罪であると思う。ゴミを自宅に置きたくないから、不法投棄を平気で行う。こうした行為はきちんと取り締まることが必要だと思う。モラルや道徳の問題ではなく、環境権の侵害である。 昔の話であるが、自動車の廃オイルを川に流していた人が自慢げに『私は廃オイルはただで処分している』と話していたことがある。こうした犯罪的行為を許してはいけないと私は思う。 反応閾値の違い8 加害行為と被害について 人間の感覚は不意にやられることと意図的にやることでは感じ方が違うとのことだ。AがBを叩いた時に、Aが1の強さで叩いたと思ってもBは2の強さで叩かれたと感じる。次にBが2の強さでAを叩くとAは4の強さに感じる。ケンカはエスカレートしていく。 肉体的な痛みだけでなくて、精神的な痛みも同じであるようだ。憎しみは倍増していく。 反応閾値の違い9 加害行為をする人 一方的に加害行為をする人もいる。こうした人の中には、他人の肉体的痛みや精神的痛みを感じることが出来ないタイプの人がいることも事実である。みんながそうだというわけではないが。 4年生の子どもが2年生の子どもを棒で叩いていたので『叩いたら痛いだろう』と注意をしたら『僕は痛くありません』と言われてことがあった。小さな子どもでも仲間の悲しみに共感する。あかちゃんももらい泣きをする。しかし、そうした感情のない人も一部いることも事実である。 最近多くなってきているのは、他人を傷つけても平気、でも自分が少しでも傷つくと許せない子どもが増加していることだ。また保護者も自分の子どもが傷つくのは許さないが他人が傷ついても平気な人が増えている。少子時代に突入した弊害であるとも思われる。集団の中で親子ともに育つ場所を作っていくことが少なくとも必要であろう。 反応閾値の違い10 賞味期限 賞味期限を極端に気にする人がいると思うと、平気な人もいる。賞味期限とは別に消費期限があっても良いのではとも勝手に思っている。美味しく食べられる期限が3日で、食べない方が良い期限が7日間みたいな表示だ。 昔、冷蔵庫などがなかったから、ご飯が『ねぐさくなったかな』などと匂いをかいだのもだ。ねぐさくなったは根が臭くなったとの意味であろうか?