最近法事に行きますとよく聞かれることがあります。
それは印と真言についてです。
真言僧は法事に関わらずあらゆる場面で印というものを結びます。
印とは手の形によって仏様を現すものとでも言うのでしょうか?
仏像をご覧になるといろいろな手の形(身振り)をしています。
これが印です。
それを真言僧は自分の手で結ぶ(行う)のです。
仏事では沢山の印を次々に結びますが、袈裟の下に隠して
行うことも多いので、なかなか見ることができません。
私は師から隠さなくても良いと言われましたので、
そのまま行っています。
すると、「九字を切っている?」とか「陰陽師みたい?」
とか言われたことがあります。
一方真言とは、四国遍路などされた方はご存知かと思いますが、
各札所に各本尊様の真言というものが、
ひらがなで書いてあります。
これは、、もともとサンスクリット(古代インドの言葉)を
音写したものがなまったのを、ひらがなで書いてあるので
大変読みにくいのですが、真言宗では仏様の本当の言葉
ということになっています。
つまり、仏様のまね(手の形ー印)をして
仏様の言葉を話し(真言)、
あとは仏様と同じように考えればすなわち仏様である。
ちょっと強引なようですが真言宗の基本的な考え方です。
ところで、「マスクMさん」より
> 近所のお寺で
> 「発心すれば即ち至る」と聞いています。
ということを言われましたので次のように答えました。
真言宗には即身成仏というものがあります。生きているうちに
仏になることが可能と説いています。
しかし「発心すれば即ち至る」というわけではありません。
方便(仏の教えに導くための方法)ではないでしょうか?
そう書いたところ「マスクMさん」より
「般若心経秘鍵」の初っぱなに書いてありますよ。
「即身成仏」
ということも同じことではないでしょうか?
何ごとも 「即」でなければ・・・
今 成仏できなくて いつ成仏出来るのでしょうか?
「般若心経秘鍵」というのは弘法大師の般若心経の解説書です。
すぐに調べてみたところ大変有名な文句です。
それ仏法はるかにあらず、心中にしてすなわち近し、
真如他にあらず、身を棄てていずくにか求めん。
迷悟われに在れば「発心すればすなわち至る」
明暗他にあらざれば信修すればたちまちに証す。
「」の中の部分です。マスクMさん教えていただいて
ありがとうございました。
このあたりブログの良いところです。
面と向かってはなかなか言ってもらえないでしょう。
自分の不勉強がよく分かりました。
マスクMさんは阿波と古事記を愛する方です。
どのような方か興味がある方は
こちらへ
このようなこともありますが
今後ともよろしくお願いします。 コウユウ
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