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東京今昔物語  (写真の世界 http://wakowphoto.world.coocan.jp/ より)

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2019.11.26
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カテゴリ:カテゴリ未分類
東京今昔物語の街並みシリーズは、前回の新宿通り(麹町大通り・四谷大通り)で終了します。

これからは、東京の町のあちこちを思いつくままに訪ねてみて、面白いと感じたこと、何故かと考えたこと、懐かしく思い出したことなど、写真を添えて報告風に書いて参ります。どうぞお気軽にご訪問下さい。


先ず、最初は、私が住む代々木の周辺から、始めます。
その歴史を辿ると、代々木には加藤清正や彦根藩井伊家の有力武士たちの屋敷があったところで、明治神宮境内に清正の井戸(湧水)があり、彦根藩の下屋敷には代々木と言われた大樅木があったように、地下水に恵まれ、地勢に優れたところでした。
(写真1)

大名屋敷の跡地は明治時代に桑畑や茶畑になりましたが、明治末期に都心のお茶の水から八王子への鐵道(今の中央線)が敷けると、大正時代には山手線が開通し、代々木駅周辺は下町から見て交通の便のよい郊外となり、詩人や画家や小説家たちが移り住み、文化人ゆかりの土地になりました。

「春の小川」の作詞者で国文学者の高野辰之は代々木に居を構えましたが、その住居跡には今も「高野」という表札のある木造の家が残っています。場所はJR代々木駅から西に歩いて10分程のところです。
(写真2)

高野辰之の旧居跡の前の道を真っ直ぐ西に進むと小さな坂があり、その坂を下った先に「春の小川」の水源池(今はマンションの下に埋まる)があり、そこから小川が流れ出ていました。高野辰之はその畔を散歩しながら故郷の長野県野沢の風景を思い浮かべて作詞したのでしょう。
(写真3)

高野辰之が見た「春の小川」は河骨川と言い、渋谷で宇田川に合流し、その後渋谷川に流れ込みます。最近、渋谷駅の南側が大開発されて渋谷川の浄化作業が行われた時、「春の小川」が復活したとメディアが騒ぎましたが、「春の小川」は渋谷川の支流の、また支流なのです。


高野辰之が春の小川に行き着く余中で通った下り坂は、後に岸田劉生が描いた絵画「切通しの写生(道路と土手と塀)」(重要文化財)の坂です。土手を切り開いて造られた赤土の道、垂直に切り立った片側の赤土の土手、反対側の真新しい石垣と石塀は、当時、代々木のこの辺りが住宅地開発中だったことを物語っています。岸田劉生は、その頃、代々木の山谷町に住んでいましたから、散歩の途中にこの光景に出会ったのです。
(写真4)

岸田劉生の絵は、よく見るとディテールまで現実を精細に描いているのに、道路の消失点は高く、両側の塀と崖の消失点は低く、一致しておらず不自然です。奥行きを表現する消失点を二つにずらして、道路を立ち上がるように強調したデフォルメ絵は、赤土の真新しい坂道を強調するつもりだったのでしょう。銀座生まれの岸田劉生は堆積層の地面しか見ていませんから、代々木に来て関東ローム層の柔らかい赤土に暖かさを感じたのかも知れません。
(写真5)

茨城県の五浦で横山大観と共に画業に励んでいた菱田春草は、目を患って代々木に引越してきます。高野辰之の旧居跡の近くに代々木山谷小学校がありますが、その校庭の角に菱田春草終焉の地の史跡標柱が建っています。菱田春草の絵画「落葉」(重要文化財)は有名ですが、菱田春草は同じような雑木林の絵を何枚も描いていますから、当時の代々木は、まだ国木田独歩の言う武蔵野の一部だったのでしょう。
(写真6)

自然主義文学者の国木田独歩は、佐々城信子と離婚して、明治末期に代々木公園の南端のNHK放送センター付近に住んでいました。代表作の「武蔵野」は、おそらく自宅付近の雑木林を歩いて書いたでしょう。明治から大正にかけて都心から見た代々木は武蔵野だったのです。

文化服装学院の裏通りの一隅に小説家、田山花袋終焉の地という史跡標柱が建っています。田山花袋は明治末期に代々木のこの地に居を構え、没するまで住んでいました。その場所は甲州街道に近く、高野辰之の旧居跡から遠くないところです。
(写真7)

田山花袋は「蒲団」「田舎教師」などの告白型小説で有名で、島崎藤村と共に自然主義文学の旗手として活躍しましたが、懺悔と小説(フィクション)との区別を知らない当時の文壇の人々から攻撃され、その後、白樺派の台頭と自然主義派の衰退で文壇の主流から離れ、晩年は静かな郊外の代々木で過ごしたと言います。

しかし、人生の真実を追究する文芸の立場からは、当時の日本の文壇では私小説の存在意義は大きく、キリスト教会的考え方に支配された西欧文学には生まれなかった独特のものでした。

第一次世界大戦で戦勝国となり、日本は大正デモクラシーと言われる平和な時代を謳歌しますが、その頃、多くの文化人は、豊かな自然のある代々木を愛して住み着きました。現代の代々木も、原生林のある明治神宮と広大な代々木公園があり、都内では皇居に次いで緑の多いところです。
(写真8)
(以上)

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写真1 清正の井戸 明治神宮内にあるパワースポットとして有名


写真2 高野辰之住居跡


写真3 春の小川の水源地は瓦屋根の屋敷の中庭の池でした。(写真左手の窪地)


写真4 岸田劉生が描いた切通し坂


写真5 岸田劉生の絵画「切通しの写生(道路と土手と塀)」


写真6 菱田春草の住居跡


写真7 田山花袋の住居跡


写真8 代々木公園





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Last updated  2019.11.26 15:15:58
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