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上野の山は、江戸末期の戊辰戦争で幕府軍の彰義隊と新政府の薩長軍とが激しい戦闘を行った唯一の場所です。大村益次郎率いる新政府軍は、現在の東京大学構内に最新式のアームストロング砲を据えて不忍池越えに寛永寺境内に多量の砲弾を打ち込んだと言います。
その時の砲撃で生じた火災で、根本中堂を含む寛永寺の主要な伽藍の大半は焼失(慶応四年1868年)しました。残った遺跡も太平洋戦争の空襲で燃えて歴史的建造物の殆どは灰になりました。寛永寺の元敷地内で上野公園内に分散して残っている当時の建造物としては五重塔、清水観音堂であり、その他は徳川家の霊廟で唯一つ残った五代将軍綱吉の霊廟勅額門と水盤舎だけです。なお上野の山の入口、西郷銅像の近くにあった寛永寺の総門(黒門と言われる)は荒川区の円通寺に移築されて保存されています。 (写真1、2、3) 現在ある寛永寺の根本中堂は、明治十二年(1879年)に川越喜多院の本地堂を寛永寺の山内子院であった旧大慈院の跡地に移築し再建されたものです。と言うことは、寛永寺の境内は、嘗ては上野公園全域の広さであったのが、嘗ての子院の一つであった大慈院の境内の広さにまで狭められたということです。 (写真4) 徳川宗家の墓地は、谷中墓地の中に区画されて存在しますが、増上寺境内の将軍宝塔墓所ように公開されていません。しかし、徳川慶喜だけは徳川宗家の墓地と離れて一般の谷中墓地の中に建てられていますので参拝できます。慶喜は朝敵の汚名を赦免してくれた明治天皇に感謝の意を示すため神式で葬儀を行ったため、徳川宗家の墓地には入らず谷中霊園に埋葬されました。 (写真5、6) 寛永寺の復興が増上寺に較べて大きく見劣りするのは、維新後の明治政府の政策に依るところが大きかったのです。明治政府は、廃仏毀釈の中で寛永寺の復興は後回しにして、最初は上野の山に医学校や病院を建設する計画でした。しかし、そのために招聘した蘭医ボードウィンの意見によって、公園として活用することとなり、今日の上野公園が誕生したのです。 なお上野の戦闘の傷跡としては、寛永寺の裏手、日暮里駅の近くにある経王寺の山門の門扉に弾痕が残っていて、これは寺に隠れた彰義隊の兵士を追ってきた新政府軍が撃った弾痕だと言われています。 (写真7) (以上) 人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。 人気ブログランキングへ 写真1 徳川家霊廟全景 右端は霊廟勅額門 写真2 上野の森 写真3 旧上野の黒門 写真4 現在の寛永寺本堂 写真5 徳川家墓苑 写真6 徳川慶喜の墓 写真7 経王寺 写真 8 東京の街を歩いてみると(東京今昔物語の本) ご 報 告 ここ十数年間、東京の街の写真を撮りながら観察した記録を写真ブログ「東京今昔物語」に書いて参りましたが、最近脚力が衰えてきて散策を続けるのが難しくなり、この辺で一区切り着けたいと思いました。幸い今日までにブログへは百万回を越える多くの訪問者がありましたので、東京の街の観察日記として一冊の本(写真8)にまとめてみました。 長期間に亘る観察文ですから、全体としての纏まりが悪く読みにくい内容となりましたが、その時々の写真も並べましたので写真だけでも笑覧下されば幸甚です。 なお、このブログ「東京今昔物語」は今後も月1回位の頻度で掲載を続けていきますので引き続きご高覧下されようお願い致します。 (以上) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.07.20 19:06:44
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