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カテゴリ:幕末・あらかると☆
富士講・富士塚・富士詣りなどと呼ばれる
古くは、太陽や険峻な山岳など自然の驚異も信仰の対象とされてきた。 その一つとして富士山は、その雄大な姿、高さ、時々の噴火などから富士山そのものをご神体とする山岳信仰の対象であった。 講というのは、宗教や経済などの目的達成のために組織された集団で、富士講は富士山への登拝を目的に、先達といわれる富士山信仰の熱心な信者や登山経験豊富な人を中心に組織された集団である。 江戸時代に富士講は各地に組織されたが、一般的には、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて人穴で修行したといわれる長谷川(藤原)角行を祖と仰ぐ、江戸を中心とした富士講のことをいう。 富士講は、江戸時代中期に村上光清と食行身禄の活動によって多くの信者を集め、江戸を中心に発展し関東一円に広まって行き、江戸八百八講といわれるまでになる。 幕府はその拡大を警戒して、講仲間を作ることや富士の加持水を病人に飲ませることを禁止したり、行衣を着て鈴を鳴らし祈祷をし護符を配ることを禁止したりなど、度々富士講の禁令を発した。 それだけ富士講が江戸の庶民に広まっていた。 もともと富士講では、富士登山をすることを目標にし、富士山に登ることによって、健康や幸せ、一家繁栄などの現世利益を得ることができるとされていたので、多くの富士登山者がやってきた。 富士講を構成する人たちやその代表である先達も宗教を職業とする人でなく、生業を持っていた。 彼らは月に何度か集まって、掛軸を掛けて本尊とし、拝み箪笥と呼ばれる小さい箱を祭壇として祈りをささげたり神意を占ったとされる。 近世、富士山が山開きを迎える陰暦6月1日から21日までの間に何人かを選んで富士詣で(富士詣り)と称して富士山に登り、山頂の富士権現社に参拝する慣習ができあがった。 近年まで、富士山は女神を御神体とするため、富士山周辺の農村では、富士山に女性が登ると天候不順や耕作不良が起きると信じられ女性の登山は嫌われた。 とはいえ、富士講には多分に娯楽的要素もあったようで、講の仲間でお金を出し合って年の順に何人かが富士山へ出かける。という仕組みもあったらしい。年の順なので何れは自分もいけるというわけである。 そして富士山に行くことのできない人たちは、陰暦6月1日の前後、江戸の浅草・駒込・高田など各地に分祀した富士権現社に参詣し、境内の富士塚に登って代償とした。 富士塚は、安永9年(1780)行者の藤四朗が高さ五間の富士山の雛型を造り、「富士山に登ったのと、同じご利益を授けていただけるように」と祈念したのが始まりといわれており、これが江戸に流行して、多いときには50カ所以上の富士塚があったとされる。現在でも都内には、10カ所程度残っている。 富士塚は、神社の境内だけでなく、寺院や民家の庭先などにも造られていたが現在ではほとんど神社の境内に残るのみである。 有名なところでは 小野照崎神社富士塚 (東京都台東区下谷2-13-14:JR鶯谷駅から徒歩約6分、地下鉄日比谷線下谷駅から約3分) 品川神社富士塚 (品川区北品川:京浜急行新馬場駅から約5分) 羽田神社富士塚 (大田区本羽田:京浜急行大鳥居駅から約7分) 高輪大木戸(国史跡) (東京都港区高輪:地下鉄都営浅草線泉岳寺駅) 調べてみて驚いたことに富士塚は沢山残っている。 鳩森八幡神社(渋谷区)・成子天神社(新宿区)・花園神社 (新宿区)・光徳寺(新宿区)・月見岡八幡神社(中野区) など、など、など。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年09月06日 19時19分22秒
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