とかくこの世は住みにくい
どうにもこうにも住みにくい。歴史の漸進性を信じていないわけではないが,どうにもこうにもおそすぎる。早く進まないと我々は死んでしまいますよ。古代を理想郷のごとく語る人がいるが、そんなのは幻想だと思う。ローマ人だってインカ人だって、我々のように生きにくかったに決まっている。たぶん我々のほうが彼らよりわずかばかりましですらあると思う。つまり、いつだってこの世は住みにくかったわけである。これを克服しようという人がいなかったわけではないし、彼らの恩恵を我々は十二分に受けていると思うが、それでも苦しいことには変わりがない。確かにこの世は不公平である。しかし、天と地ほどの環境の差でも、苦痛に対して見返りがあるかないかの違いであって、苦痛がないわけではないと思う。ただ、幸運な人は多少なりとも苦痛に対してお釣りをもらえるというだけであると思う。じゃあ、この現実に対して我々はどうすればいいのか。潔く腹を切るというのも一つの手であるとは思うが、こんな世の中でも未練を断ち来るのは非常に難しい。仏陀はえらい。生きながら縁が切れたのだから。でも彼のおかげで多くの人が縁に絡めとられたわけだから、業績としては賞味たいしたことがないのかもしれない。できれば迷いや苦痛を肯定して生きれたらいいのであるが、それにはあまりにも自分も社会も馬鹿げすぎている。屈原は飛び込むときどういう気持ちだったのだろう。最後の最後までただ一人清んでいると思っていたのだろうか。それならよほど見上げた男であるが、しかし、たぶんいくぶんかの哀愁や皮肉を彼が感じなかったとは思えない。じゃあ、聖堂にこもって泣いていようか。それとも祈っていようか。もしくは象牙の塔でこの世を憂うて皮肉屋になろうか。どれもこれも皮肉である。その時は真剣だと思うが、しばらく続ければ、自らが滑稽に思えてくることは確実であると思う。事実、どう足掻こうとも幾分かの滑稽さは免れ得ない。もっとも、我々に滑稽を免れる行動が可能かどうかはなはな疑問であろう。マルクスだって、ケインズだって、自分の名誉や学位のためだけに研究したわけではあるまい。彼らとて、世の中を生きやすい世に変えたいと真剣に思ったこともあったであろう。彼等がどれほど真剣だったかはさておき、まぁ、現実はこの程度の体たらくである。神が我々を助けてくれるかね?御冗談を。こんなユートピアを見れるほど我々は子供ではない。パスカルは私には痛々しく見える。彼に神の救いはあったのか。彼自身はそう思いこもうとしていたかもしれないが、たぶんそんなものはないことを彼ほどの頭脳の持ち主にはわかってしまっていたと思う。それが、彼の苦痛を倍加させたとしか私には思われない。世界が無意味かどうか私は知らない。たぶん無意味ではないだろう。では、この苦痛をしのぶ価値があるだろうか。我々は、善人ほど先に死なねばならないという呪いを大昔からずっと背負っている。それほどの価値を私が背負うのか。とんでもない。悪人にすらなりきれない感があるのに、善人になどなれるわけがない。どうにもこうにもやりにくい。自分も他人もみんなやりにくい。それを知っているから、ますますやりにくい。いつか福音が我々に届くかもしれないが、もちろん届かないかもしれない。なんとなく届かないような気がする。隠れて生きよといったは仏陀やはり賢こかった。しかし、彼はこの世界を救えなかったと思う。たぶん、彼もそのことは知っていたと思う。I hear Jerusalem bells are ringing Roman Cavalry choirs are singing-Viva La Vida- Coldplay