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テーマ:最近観た映画。(39270)
カテゴリ:映画
今日は久しぶりに映画館で「怪談」をみる。最近の映画館って、付加サービスが意外にすごいのにびっくり。無料で携帯を充電したり、ブランケットを貸し出してくれたり、女性専用席があったり。(有楽町だからかもしれないが)
ストーリーそのものは、落語の「真景累ヶ渕」の通りなのだが、げにすざまじきは、女の執念。(つっこんでもいいんだが、あまりやるとネタばれなので、ここでは控えます。でも、ストーリーと浜崎あゆみの歌う主題歌、全然あってないような気がする。歌のタイトルはつながってるけど) 豊志賀(黒木瞳)のように何人にも手をかける(新吉にかけさせる)執念は脱帽。が、自分でコントロールできないくらいに惚れてしまうと、自分で自分がいやになるのだろう。また、新吉が愛想を尽かしたくなるようなことしかしていない自分も分かるし、実際新吉(菊之助)もそう思ってる。で、負のスパイラル。 素朴に考えて、豊志賀、新吉は幸せだったのか? 豊志賀のようにあそこまで惚れるのは幸せか?また、あそこまで惚れられるのは幸せか?いろいろ議論の余地はあるだろうが、多分幸せだろう。 が、豊志賀のような愛情表現は、する側にとってもされる側にとっても幸せか?これもいろいろ議論の余地はあるだろうが、私としては恐い。束縛されるのがもともと嫌いなので、逃げちゃう。その点では、新吉に大いに同情する。する側も、自分が年上だからというあせりというか、心に余裕がないので、自己嫌悪しながらだから、本人もいやだろう。 では、豊志賀と新吉の愛情のバランスはとれていたのか?自分亡き後に女房をもったらとり殺すとまでいう豊志賀の愛情の深さ(執念?)と相手が死んだらとっとと他の女と江戸を出る新吉の行動。これは、新吉の愛情が豊志賀ほどに深くなくて新吉の節操のなさを責めるべき?(坊主になって一生豊志賀の菩提を弔っていたら、生き残れたかも。が、八百屋お七に見初められたらそれはそれで、一巻の終わりだが)それとも、豊志賀の死を以って一つの愛が完結したとみる男女間(生死者間?)の認識の違いとみるべきで、新吉の愛情の深さを問題視すべきではない? 多分この答えと最初の問いの答えは、ラストシーンの新吉の顔の表情をどう解釈するかによると思う。素直に割り切れるものでもないので、答えはいろいろだと思うが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
August 13, 2007 02:19:36 AM
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