ダン・ブラウン著「天使と悪魔」読了
この間「天使と悪魔」を読み終えました。映画だけだと疑問が多かったが、原作を読んで、すっきり納得。映画よりもはるかに深いテーマだったんですねえ。映画だと単なるミステリー。それだと、わざわざイルミナティを持ち出す必要もないし、反物質である必要もない。ずいぶん時代がかった設定だな、程度になってしまう。けれど、ここで問いたいのは、「科学と宗教」。確かに、キリスト教の場合、高々2,3世紀くらいまでの科学知識でもって、別にキリストも言ってなかろうに、聖書+αの形で、教会が好き勝手民衆に言っていた。当時はインテリ層か教会以外本が読める人なんてそうそういないから、きっと、その場その場の雰囲気に合わせて、無知な群集を従わせるだけのトリックとして、言っていたのだろう。今でも、手品もどきに、神父の手のひらから何もしてないのに、血が出たとか、(キリストの磔の傷の跡のつもり)いっては、教会の集客率をあげようとしている輩もいる。が、そのまま1000年以上変えないから、ルネッサンス期の科学と衝突する。今でも、弊害が続いているが。そこへいくと、日本の仏教や神道は全然そういうことをしなかった。というより、どうやって世界ができたの?とか、真剣に考えてない。お話、として一応あるけど、まあ別にビッグバン説がでても、神道の神主さんが怒って、違うなんて、いったなんていうことなんかありえないし。人間でも、何か適当に理由をつけて神様にしちゃえる日本の宗教土壌は、至って寛大。多少神話が正しくなくないことが証明されたって、誰も気にしない。ので、イマイチ、日本では何でこれが戦いの理由なわけ?で大概終わるだろう。もっとも、その方が争いの種が少なくっていいんだけどね。けど、ここでは、「天使と悪魔」の犯人が提起した問題、科学は発達しているけれど、その使い方、精神面はその発達のスピードに追いついていない。本来精神面で宗教がリードすべき立場だが、どうしたらいいのか、よく分からん。犯人はその後で、よって科学の進歩を少しでも遅らせよう、という結論に落ち着くのだが、ここでは、その手前の精神面と科学の関係についてちょっと考えてみたい。うそでも、全知全能の神とか言っていれば、大昔の人なら、教会にやってきて問うかもしれない。お空は落ちてきませんか?聖書にそんな話は書いていないけど、信者から問われれば、答えられなければ。神様はそんなことをしませんよ。神は人を愛しています、なんていえば、なるほど、とその質問者は納得してくれるかもしれない。その程度なら、かわいいだろうけど、人間はどうやってできたの?子供ならコウノトリってごまかせるけど、最初の人間は?となると、ダーウィンがでてくるはるか昔なら、アダムとイブを神が創ったことにしとけば、なるほど、と言ってもらえるだろう。けれど、科学が発達して人間は類人猿から発達して、なんていうのが分かるようになると、今までの教会の話は、まあみんなが分からない時代にみんなの心を鎮めるためのお話だったのよん、くらいに受け取ってあげればいいのに、まじめに聖書の一字一句を文字通り受け取ろうとする人たちがいるため、そうもいかないらしい。ここのあたりが、白黒をつけなきゃ気がすまない、2分法主義の欧米人の性というべきか。が、正直、そんなことに現代の人間は、神を求めているんだろうか?そんなのはどうでもよくって、むしろストレスとか、都市化が進んでコミュニティが育ちにくいから、犯罪とかが増えるとか、そういうところに、すさんだ心、社会のすきま風があるわけで、本来はここに宗教なるものが癒しを提供しないといけないんじゃなかろうか。日本でもオウム真理教とか、統一教会とか、怪しげな宗教が出てきてみたり、麻薬とかに走ったり。慶応や早稲田の学生にまで麻薬がはやっているなんて、どういうことだ?真剣に宗教の、本来の社会的役割について宗教自体が答えを模索しないといけないのではないのか?例えば、今不況で寺社仏閣への寄進は減っているはず。最近はインターネットお守りとか、お守りの種類を細かく分けりゃいい話ではない。もっと根本のところを考えるべきだろう。