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我思う、ゆえに我あり

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yukie_yo

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January 12, 2008
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カテゴリ:雑考あれこれ
江戸時代の日本人が明治維新ができて、明治、大正の日本人が昭和維新に失敗した理由を教育に求める仮説をもてあそんでいる。で、最近江戸時代の教育を見直そうと思って、素読百回の教典にチャレンジ。で、まずは何を江戸時代の人たちはそらんじていたのかな?というと、これ、って決まっているわけではなく、藩校や寺子屋によってみんな違っていたようなので、とりあえず、論語、孟子、詩経、孝経、易経、春秋左氏伝を買ってきた。

で、今日は雨ということもあって、家にこもってまずは易経から。といっても、まずは入門書。

通常、易というと、占いを最初にイメージするが、意外に占いばかりの世界ではない。一応、説明はあるが、分かりにくい。。。

が、目から鱗なのは、易というのは、占いと義理(論理)をあわせているもの。義理の部分を取り出せば、中国古来の世界観というか、思想がある。前書きにも、占いの部分と義理の部分のいずれが強調されるべきかが議論されているようで、この本はどっちもバランスよく書いてある。こうした本は中国でも少ないようで、中国語に翻訳されているそうだ。この辺りがこの本の実力と言うべきなのかもしれない。

中国人の思想の一つとして、西洋の二元論は対立する関係を描くが、中国は相互補完的な関係を観る。例えば、高い、低いという言葉がある。けれど、高いというのは、低いものがあるから、いえること。結局相対的なものでしかない。同様のことは、善悪にも言えて、悪は善があるからみえること。多分、注釈をつけるならば、絶対的なものを見ないというべきなのだろうか。多分突き詰めて考えない、というわけではない。絶対的なものがない以上、そんなものの話をする必要がない、という実用的な考え方のように考えられる。なので、ファウストの悪魔との議論は成立しないようだ。

これを運命に当てはめると、運命の自己管理不能部分は存在する。が、運命は自ら切り開くもの、でもある。運命の自己管理不能部分はどうやっても義理だけでは説明できない。その辺りは、神秘的なものとしてあきらめて占いに任せる。が、だからといって運命は既定路線とあきらめない、不思議な楽観主義がそこにある。曰く、「人間的な努力を重ねて真剣勝負の人生を送るところに運命が生きる」。

まただから、わが運命はどうあるべきなのか、自分の運命を切り開くための指針として義理部分に触れているものと思われる。そしてその上で、

易にいわく、天を楽しみ、命を知る、ゆえに憂えず(「運命をわが物として主体のうちにとり込む時、人間はいよいよ強靭になるであろう。そして安心の境地が得られるのである。」)。これが、いわゆる天人合一思想。

きっと、人間、どういう選択をするのかまでは運命の自己管理不能部分ではない。決断を迫られるたびに、運命というレールの分岐点にいる。選択した後の結果は運命というレールは敷かれていて、平坦な道か山だらけの道か、それは運命というもの。だから、人間、100%投げやりにならずに精一杯、生きましょ、ということだろうか。

これを自然と人間に当てはめると、自然と人間は対立する関係ではない。もともと人間も自然の一部。が、かといって自然に埋没させるのではなくて、自然界の秩序に人間理想を見出し、その理想に忠実に生きようと努力する。そうした部分が人間を中心とした思想にさせるとのこと。

なかなか意味深だ。例えば、人間は食物連鎖の中では頂点にいる。なので、最も人数が少なくあるべきだが、医学の発達のおかげで人数が増えている。ところが、世のなかうまくできていて、医学の発達に対抗すべく新しい病気がどんどん生まれる。昔はペストとか大流行したし、最近ではエイズやSARSが発生している(SARSは中国、何かしたん?といいたいところだが)。確かに、いたちごっこかもしれない。が、医学を発達させると言う点で人間は人生を投げずに真剣勝負で生きてる。これを是としている、ということではなかろうか。

巻末にあることばが印象的。「(天人合一思想の人間の主体性の)つらぬき方は、西洋のように真っ直ぐ向こう見ずに進むのではなくて、全体世界の調和を考えながら進むということ」。

どうしても、個ばかり意識する西洋型思考と全体をも考える東洋型思考の違いというべきか。確かに、二元論で対立路線で考えると、そこには全体を考える思考はない。対立路線にたつことで、互いを傷つけていないのか?傷つける必要はあるのか?西洋のように思考プロセスを真っ直ぐになぜなぜ?で考えていっても、最適解を得られる保証はない。論理思考は、人々の最適解を得るためにすること。ためにするものではない。そう考えれば、目的にもっと忠実に考えようとしているのは、案外東洋型思考なのかもしれない。西洋式思考を「向こう見ず」と呼ぶだけの深遠性を東洋型思考は備えている、といったら刺激的過ぎるか?

しかし、奥が深いですねえ。





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Last updated  January 13, 2008 02:45:01 AM
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