一会員による『学城』第12号の感想(2/13)
(2)超一流を目指す師弟関係のあるべき姿とは 今回から、『学城』第12号に掲載されている各論文について、順次その感想を述べていきたい。 初めに取り上げるのは、北條翔鷹先生の実戦部隊飛翔隊の修業過程に関わっての論文である。ここでは、北條先生が海保静子教官から受けた指導、「技の正確無比の要求」(p.18)とはどのようなものであったのかについて、事実と北條先生の思いを織り交ぜて説かれていく。 まずは以下に、本論文の著者名・タイトル・目次を掲載する。なお、今号からはこれまでほとんどの論文についていたリード文が全ての論文でなくなっているため、本連載においても今回以降、リード文の記載はないことを予め断っておく。北條翔鷹実戦部隊飛翔隊修業の総括小論(2)―1983年~1988年3月の実戦部隊飛翔隊合宿修業小論― 《目 次》はじめに 武道修業合宿生活の内実と己の精神構造の生成発展について説く一、海保静子教官に師事して学んだ武道魂とはいかなるものか(再説) 序 わが武道人生の師 (一)わが流派の武道家として使命を受けて (二)海保静子教官から学んだ武道魂を問う (三)世界第一級のバレエ技から描く武道空手技の学び 本論文ではまず、前回説かれていた「武道修業・修行に絶対にかけてはならない修業者の精神性」に関する論文を受けて、武道合宿における具体的な修業過程について説いていくことが宣言される。このことは、かつて『学城』第6号においても説かれていた内容であるが、「心機一転」「もう一度説くことから始める」(p.8)とされている。そして海保静子教官から学んだ武道魂が説かれていく。具体的には、大学での武道空手部創部を決意した北條先生が、弐段を取得したいとして海保教官の空手特別指導を受けられることになり、決死の覚悟で臨んだ初日に、「いきなりマシンガンのように胸を抉られるようや嫌味とも思える言葉を連発」(p.12)されるのである。さらに練習においてもいきなり怒鳴られ、膝をけられるなど、「それまで描いていた《指導》ないし《指導を受ける》というイメージとはまるで異なった異様なものを感じた」(同上)のであった。今から振り返ってみれば、それは「指導開始の然るべき仕儀」(p.15)であって、これがなければ自分の人生は始まりえなかったものだという、大きな感謝とともにこの事実を見て取れると北條先生は述べられている。海保教官の指導に関しては、世界第一級のバレエの技から学ばれた「人間の五体を技化する」(p.18)レベルのものが根底にあったことも説かれていく。「マイヤ・プリセツカヤのクラシックバレエ技が、まさにミリ単位での正確さを実現していたことに鑑み、ここからイメージした武道空手技の指導を受けたことだった」(同上)と述べられていることがそれである。技を見る目を養う指導や武道空手技と認識との関係に関する理論的な指導なども受けたことが説かれ、最後に、玄和会の女性たちへのエールが記されている。 本論文でまず注目したのが、海保教官と北條先生との師弟関係についてである。この両者の関係は、本論文でも説かれているように、通常イメージされるような関係では全くない。通常であれば、師は弟子に対して、ある程度やさしく、温かく向かい入れるものだと思われるであろう。指導に際しても、時には厳しい態度で接することがあるにしても、基本的には弟子が嫌になってあきらめてしまわないようにと、優しい言葉をかけながら丁寧に分かりやすく教えていくものだと想定されるだろう。 しかし海保教官と北條先生との関係は、こうした通常想定されるものとは全く違ったものであったのである。初対面でいきなり罵声を浴びせ、実際の指導においても怒鳴りながらの蹴りであり、できるまでの際限のない繰り返しの要求であったのである。北條先生は本論文において、こうした海保教官の指導を受けた際の感情を、実に6ページ近くにわたって振り返っておられる。そこには、「ショッキング」(p.12)、「パニック」(同上)、「衝撃的」(p.13)、「それまで生きてきた中で最大の屈辱」(同上)、「触れてほしくない虚栄心を抉られた」(p.14)などのマイナスの感情とともに、「逃げ出したらオトコとしての面子が立たない」(同上)、「必死で前に進むしかなかった」(p.15)、「主体的な挑戦へと大きく志が変化していった」(p.16)、「なんでもやってやる」(p.17)などの前向きな感情も述べられている。 これは一体どういうことか。それは、指導者の立場からいえば、超一流を目指すのであれば、甘ったれた言葉など必要ではないばかりか、かえって邪魔になってしまうのであって、被指導者に屈辱感を味わわせることで、逆境に立ち向かう強い精神力を発揮させるのであり、もうやるしかないのだ、余計なことは考えている暇はないのだと思わせることである。こうすることで、被指導者は、「指導を逃げ出すか、要求された技を見事にできるようにするか、二つに一つしかない」(p.13)という情況に追い込まれるのであり、逃げ出さないかぎりは、必死になって挑むしかないということになるのである。師弟の関係、それも超一流を目指す関係というのは、こうした非常な厳しさに結果としてのやさしさが現われるものだということである。今年日本でも公開されたデイミアン・チャゼル監督の映画『セッション』でも、同様の師弟関係が描かれていて興味深い。 もう1つ、この論文で取り上げたいのは、『学城』第12号全体を貫くテーマである「まわりみち」ということに関わってである。冒頭でも述べられているように、この論文は、『学城』第6号において説かれた内容をもう一度説くことにしたというものである。では、この繰り返しは何の意味もない無駄な作業であるのかといえば、決してそうではない。常に自分の原点を確認するということには、自らの目標を達成するうえで欠かせない効果がある。どのように進むべきかということは、自分が何を目指しているのかということに大きく規定されるものであるから、その自らの原点をしっかりと確認するということが非常に重要になってくるのである。のみならず、自分の論理展開を何度でも概括して、一段高い視点から、またはさらに深い部分にまで突っ込んで説いていくということによって、論理能力が養われていくのである。これはアリストテレスの学びの方法として、『学城』第9号において悠季真理先生が説かれていたことである。一見無駄とも思える「まわりみち」を経ることによって、自らの目標に向かって何をなすべきかを明確にするとともに、論理能力を向上させることができるのであって、これらはとりもなおさず、学問への道の王道なのである。