カテゴリ:言語学
中日新聞に連載中の町田健氏「現代日本誤百科」批判の20回目である。今回は「聖域なき関税撤廃」という表現に関する町田氏の見解を見ていこう。
町田氏はまず「「聖域」は神聖な場所で、中に立ち入ることは許されない」と指摘した上で、それが輸入品の関税に関して用いられると、「確かに「聖域」と言えば、問題の品目が非常に貴重だという判断を表すことができる」という。「しかし、あるものが「聖域」にあるのなら、神聖なことが誰にでも明らかなはずだ。この場合の聖域は、交渉中にいくらでも変化がありうる。容易に変わりうる不安定なものが「聖域」であるはずはない」として、結論として「「例外」と言えばいいだけだ」と言うのである。町田氏の論理は要するに、「聖域」=「神聖」≠「不安定」と言うことだ。すべて言語で表現すると、「聖域」というものは明らかに「神聖」なものであって、「神聖」ということは絶対的ということであって、「不安定」なものは「神聖」ではないから、「聖域」を「不安定」な領域に使うことはできない、と言うことだろう。 こういう意味でつかわれる「聖域」はもともと、「予算削減に聖域なし」のように、「神聖」という意味よりも「不可侵な領域」という意味合いの方が強い。予算削減に関しては、ここは踏み込まない領域だとして一定の範囲を定めて、他の部分で実行する、というのではなしに、そうした不可侵な領域を一切定めずに削減対象にしましょう、ということである。今回の輸入品の関税撤廃に関しても同様で、一切の輸入品について関税を撤廃し、関税で保護されるような不可侵な領域は一切つくらない、という意味である。 言語道具主義者は認識である言語規範を言語であると思いこみ、この言語規範が示す一般的意味にそれぞれの語を照らして、何らかの矛盾があるとこれを言語の誤用と断じるのである。今回も「聖域」の意味を「神聖」という一般的意味に局限し、その上で「不安定」とは矛盾するから誤用だというのであって、これではいかなる対象から生成した認識を表現しているのかという表現主体のあり方は全く無視されている。頭の中の辞書から語を選んで並べることが表現であると考える言語道具説では、言語は表現者の認識の表現であることが論理的に抜け落ち、さらに対象から認識へという概念生成の過程的構造も全く無視されてしまっている。 対象から認識へ、表現へという言語成立の過程的構造を見てみると、単に「例外なき関税撤廃」という表現では言い表せない内容を「聖域なき関税撤廃」という表現で言い表しているのである。そこには、これまで不可侵の領域とされていた輸入品目に対する関税撤廃への強い意志が表れているし、「聖域」化されていたこれまでのあり方に対する批判の思いも表現されているのであって、こうした過程的構造を「例外」などという平凡な言葉で表現できるはずがないからこその、「聖域なき関税撤廃」なのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年12月03日 14時09分44秒
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