町田氏はこの表現について、「メダルを取った選手が、表彰台でそれをかむこと」を批判するものとして使われることがあるとした上で、「「屈辱する」と言うことはできない」として、「「侮辱」と言えばよい」と結論する。
今回はこれだけ見ればもっともな主張である。しかし、である。この検証過程で言語道具説的発想が頭をもたげるのである。町田氏は、「屈辱する」という表現が誤りであることを説明するに、「「害を受ける」という受動の意味の「被害」をもとに「被害する」を作ることができないのと同じだ」というのである。町田氏の言う「作る」というのは、バラバラな部品を組み立てるという意味であって、これでは言語の材料を適当に並べることが言語だということになる。
言語は「作る」ものではなくて、「創る」もの、つまり新しく創出するものである。言語は出来上がったものだという、辞書から言語を取り出して使うという考え方では、言語の背後にある認識や対象のあり方を薄っぺらなものとしてしか捉えられないのである。
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最終更新日
2014年03月05日 16時16分56秒
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