町田氏は、「綱紀粛正」や「意気投合」を例にとり、「綱紀を粛正する」や「意気が投合する」などとは言えるが、「疲労回復」は「疲労が回復する」ことでも「疲労を回復させる」ことでもなく、「疲労から回復させる」ことだから、「これを四字の漢語で表すことは普通できない」と主張する。そして、「「元気回復」なら「元気を回復する」ことだから問題ない」と結論する。
「疲労から回復させる」ことを「疲労回復」と言えないのはなぜか。「疲労回復」と言えば、その表現者がどのような認識を表現しているのかは明らかで、こういう場合に省略が可能なのであるから、「疲労から回復させる」ことを「疲労回復」と言えることになる。
そもそも「回復」とは、「もとの状態に戻ること」(コトバンク)という辞書的意義を持っているから、「ダイヤの乱れが回復する」(同上)という表現も成立する。表現の過程的構造に分けいれば、「ダイヤの乱れで失った異常な運行の状態がもとの状態に戻ること」を対象として把握し、それを表現したものとして、「ダイヤの乱れが回復する」という言語が創出されたのである。同様に、「疲労で失った元気な状態がもとの状態にもどること」を対象として把握し、これを表現したものとして、「疲労が回復する」=「疲労回復」という表現が創出されうるのである。「もとの状態」=「「回復する」の主語」などという機能主義的・形而上学的な考え方が言語規範であるという把握は、言語道具説の量質転化の結果に他ならない。
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最終更新日
2014年03月04日 23時00分34秒
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