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ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

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2014年03月18日
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カテゴリ:言語学
 町田氏は「耳を疑う」という表現について、「とても信じられないと思う」ことだとした後で、「「衝撃の事実に耳を疑う」と言えるなら「耳を疑う衝撃の事実」もよさそうだ」としながらも、「「事実」というのは本当に起こったことなのだから「事実だった」と言っているからには、起こったことを知っていなければならない」と言う。そして「それなのに「耳を疑う」のなら、知っているけれども知らないから、信じられないという矛盾した内容を表すことになる」から、「耳を疑うほどの」として「矛盾」を「解消」すべきだと結論する。

 「「事実だった」と言っているからには、起こったことを知っていなければならない」というのが解らない。「耳を疑う衝撃の事実だった」という表現は、「事実だった」の前に「耳を疑」っているのだから、「耳を疑う事実」というのは信じられない事実と言うことである。何が「矛盾」なのか。「信じられない」ことが事実だとしたら、それは信じられない事実=「耳を疑う衝撃の事実」と表現しても何ら差し支えない。

 そもそも「事実」とは、「実際にあること、あったこと」であって、それを「知っている」かどうかは別問題である。町田氏は、その形而上学的な頭に災いされて、「だった」という表現を、過去の既知の事実だと勝手に解釈しているのである。「耳を疑う衝撃の事実」が過去の出来事で起こったことだという当たり前の理解ができずに、何としても「日本誤」を見つけなければならないという、経済的か何か分からない理由に規定されて、全くおかしな解釈をしてしまっている。もう一度自分の書いた文章を読んでみて、おかしいと思わないのだろうか。





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最終更新日  2014年03月18日 22時03分09秒
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ガラスの玉は、本物の真珠をきどるとき、はじめてニセモノとなる。

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孤独を恐れ孤独を拒否してはならない。名誉ある孤独、誇るべき孤独のなかでたたかうとき、そこに訪れてくる味方との間にこそ、もっとも深くもっともかたいむすびつきと協力が生まれるであろう。また、一時の孤独をもおそれず、孤独の苦しみに耐える力を与えてくれるものは、自分のとらえたものが深い真実でありこの真実が万人のために奉仕するという確信であり、さらにこの真実を受けとって自分の正しさを理解し自分の味方になってくれる人間がかならずあらわれるにちがいないという確信である。

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