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ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

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2015年01月20日
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カテゴリ:学び方・振り返り
(3)言語学の学び

 本稿は、1年間の学びの成果や課題について、より大きな視点から振り返り、概括し返すことを通じて、私の人生の目的である言語学の創出に向けた成果を確認し、課題を明らかにしていくとともに、学問化可能な認識を創出していくことを目的とした小論である。特に、学んだ中身を羅列するのではなくて、獲得した成果を概括して、筋を通して述べていく形式で展開していくことに注意して執筆するものである。

 前回は、小論執筆の学びを振り返った。小論執筆において、言語学に関する成果を積み上げるとともに、執筆計画を学びの指針として活用するという目標を立てていたのであるが、学びの方針としての役割は十分に果たせたといってよいことをまず確認した。さらに、言語学に関する成果ということに関わっては、認識が見えてきた時代である17世紀において、認識の2つのあり方に基づいて言語が大きく二大別されたことが、これまでの言語観、すなわち対象を直接言語に結びつける考え方から大きく発展したものであることが把握できたこと、また言語道具説のいわゆる言語が言語過程説でいうところの言語規範を単純化したものであって、言語の過程的構造における対象を論理的に無視してしまっているため、言語の意味を言語の意義(意味の中心)に解消してしまうことで精神的な交通を阻害するだけでなく、認識が知識的になってしまうことで文化遺産の発展の道も閉ざされてしまうことを説いた。

 さて今回は、言語学の学びにおける認識の発展について、先回小論執筆の学びでの成果で説いたことのほかに、どのような成果があったのかについて述べていきたい。

 まず、主体的表現とは何かに関わっての考察についてである。2014年5月に行われた合宿において、『ポール・ロワイヤル文法』の大きな成果として語の二大別、すなわち言語過程説の言葉でいえば、客体的表現と主体的表現とを区別することができたことを発表した。これに関して、前置詞や助詞などが主体的表現だといわれているが、そもそも主体的表現とはどういうものか、という疑問が呈されたのであった。この疑問に対しては、明確に答えることができずに、そもそも主体的表現とは何かといった言語過程説の根本的な理解に関わる部分の把握の仕方が不十分であるといった課題が見えてきたのであった。

 そこで、三浦さんの『認識と言語の理論』やジョン・ロック『人間知性論』などを読み進める際に、常に「主体的表現とは何か」を問いかけ続けていったのである。今までの認識では、主体的表現というもの自体や、客体的表現と主体的表現との区別に関しては、自明のものとして、既に存在するものとして、その説明などもどちらかといえば読み飛ばしてしまっていた。ただ三浦さんの『日本語はどういう言語か』における、客体的表現は「話し手が対象を概念としてとらえて表現した語」であるし、主体的表現は「話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを、客体として扱うことなく直接に表現した語」である、という記述を、特に意識的に捉え返すことなくそういうものだとしていたのであった。しかし今回は、そもそも主体的表現とはどういうものかを根本的に問い直すという目的意識で読み進めることで、主体的表現に関するイメージを豊かにしていこうとしたのであった。

 『こころところば』では、客体的表現と主体的表現については、「自分のむこうにあるものごとやありかたをとりあげることばと、そのときに自分の心に生れた気もちを示すことば」(p.24)というように捉えられている。『認識と言語の理論』第2部では、「客体の反映としての認識の表現が客体的表現となり、これから相対的に独立して生まれた感情や判断や意志の表現が主体的表現となる」(p.400)という説明がある。ロック『人間知性論』では、「心の中の観念の名前である言葉」と「心が観念や命題に与える相互の結び付きを表す言葉」(もしくは「それらの観念に関するその時の心自体のある特殊な動きを示したりほのめかしたりする言葉」)が明確に区別されている。

 こうした直接的な学びに加え、歴史的現在といわれるものに関する記述で、「観念的な自己と客体との関係はすべて現在である」(『認識と言語の理論』第2部、pp.500-501)と説かれているような、主体的表現とは何かとは直接結びつかない媒介的な学びも含めて、現時点での把握を表現すれば以下の通りとなる。

 主体的表現という場合の主体というものは、観念的に分裂した自己のことであり、その観念的に分裂した自己の・見方・捉え方(対象の把握の仕方・対象に対する感情)を、我々は主体的表現で表している。客体的表現との関係でいえば、客体的表現が観念的に自己分裂した自己の対象(現実的な自分も含む)を、その実体や属性のあり方として捉えて表現したものであるのに対して、主体的表現は観念的に自己分裂した自己自身を、対象の把握の仕方や対象に対する感情のあり方そのものとして捉えて表現したものである。例えば、「机に本が置いてある」(There is a book on the desk)という表現を考えた場合、「机」(the desk)と「本」(a book)との関係を「に」(on)と主体的表現で表している。これは実体と実体との関係をどのように捉えたか(つまり観念的に自己分裂した自己の対象の把握の仕方=主体のあり方)を「に」(on)という主体的表現で捉えたものとして表現しているのである。

 もう1つ、言語学に関わる図の発展について述べておきたい。2013年の年末に行われた合宿において、私が提示した言語学の原点の図は以下の通りであった。
言語学の原点の図(2013年末)
 この図は、言語表現の過程的構造について、頭の中にある「辞書」=言語規範を媒介にして対象を反映した認識が表現され、その物質化されたものが客体的表現と主体的表現に分かれることを表したものである。しかしこの図には、言語表現は精神的交通のためにこそ行われること、言語の過程的構造における対象→認識→表現のそれぞれの段階においては、それぞれが特殊的な側面と普遍的な側面との二重性の統一として現れること、言語規範が対象→認識→表現のそれぞれの段階の特殊性を捨象し普遍性を抽出した構造を有すること、がうまく捉えられていないという欠点があることが分かってきた。

 そこで、これらの点を修正していって考案したものが以下の新しい言語学の原点の図である。点線の下は現実の世界、上は観念の世界を表している。
言語学の原点の図(2014年の学び)
 さらに、先回の言語道具説における言語=言語過程説における言語規範を図示すると以下の通りとなる。言語道具説では、概念と音声表象が結びつくだけの平面的な把握で、対象が論理的に捉えられていないことがよく分かると思う。
言語道具説の言語と言語過程説の言語規範
 2014年の年末の合宿において、「言語道具説では言語規範を言語と誤認する」、と私が表現したことに対して、他の会員からそれはどういうことか、言語道具説では言語規範全体を言語と考えているのではなくて、言語規範のうちの表現の部分から抽象した「語彙」にあたる部分だけを言語と考えているのではないか、との疑問が出された。しかしこの図を見ると、そもそも言語道具説では言語過程説における言語規範のイメージがなく、言語規範を平面的に・対象を論理的に無視して・概念と音声が結びついただけのものとして・捉えているのであって、この統一体を言語と考えているのであるから、「言語道具説では言語規範を言語と誤認する」という表現はそれなりに筋が通っていることになると思う。





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最終更新日  2015年01月20日 17時10分46秒
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日本語の裸体的性格について   YAGURUMA"剣之助" さん
 着実に学びを深められており励まされております。

 There is a book on the desk.(机の上に一冊の本がある。)の”on”ですが、これは対象物である”机”と”本”との位置関係が”上”であるという客体の関係認識と共に、”机”と”本”との関係であるという主体的認識である”に”の統一としての屈折語の単語です。
 
 ここに膠着語としての裸体的表現の日本語と屈折語としての英語の表現、単語の差があります。この現在時制としての対象の認識では表現主体の自己分裂は起こっていないと考えます。過去形で"本があった"と言う表現の場合は現在から過去への移動のため観念的自己分裂が起こり、現在に戻り分裂が解消した時点で”た”と表現しています。

 しかし、この文が会話や地の文ではなく小説の作中人物の表現であれば作者が観念的に自己分裂した作中人物の表現となります。さらに、ここで過去形での表現となれば二重に分裂し最終的には自己に復帰するわけです。このような立体的、能動的な認識の運動を捉える必要があります。

 一人称表現の特殊性を良く考え表現主体と認識主体の関係を混同しないようにする必要があると思います。■
  (2015年01月23日 09時50分27秒)

Re:日本語の裸体的性格について(01/20)   ゆきよき さん
 YAGURUMA"剣之助"さん、コメントありがとうございます。

 日本語と英語との違いについては、今後突っ込んで検討していきたいと思います。観念的自己分裂に関するご指摘も、まさにそのとおりであると思います。ここは三浦さんの論理を学ぶ過程で深めていきたいと思います。 (2015年01月23日 16時20分16秒)

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ガラスの玉は、本物の真珠をきどるとき、はじめてニセモノとなる。

政治の分野であろうと学問の分野であろうと、革命的な仕事にたずさわる人たちは道のないところを進んでいく。時にはほこりだらけや泥だらけの野原を横切り、あるいは沼地や密林をとおりぬけていく。あやまった方向へ行きかけて仲間に注意されることもあれば、つまずいて倒れたために傷をこしらえることもあろう。これらは大なり小なり、誰もがさけられないことである。真の革命家はそれをすこしも恐れなかった。われわれも恐れてはならない。ほこりだらけになったり、靴をよごしたり、傷を受けたりすることをいやがる者は、道に志すのをやめるがよい。

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