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ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

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2016年06月26日
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カテゴリ:学一般
(4)「広島演説」は焦点をぼかした表現を多用している

 前回は、「広島演説」に登場する「物語」に焦点を当ててその内容を検討していった。まず、「物語」(=”story”)という言葉が直接使われている箇所を引用し、権利が保障され、人間が平等に扱われる世界を追求していく決意をオバマ米大統領が述べていることを見た。また、こうした理想を追求していく人類の歩みを「物語」として把握することで、壮大な歴史を語っているのだという効果を引き出しているというオバマ大統領の技巧上の工夫についても言及した。しかし、ヨリ注意すべき点として、「物語」(=”story”)という言葉が直接使われているわけではないが、「物語」的な語りを行っている部分、すなわち冒頭の部分と結びの部分について、「物語」(=”story”)という言葉には二面性があることに触れつつ取り上げた。ここでは、原爆投下の事実を「物語」として語ることによって、いわば「他人事」にして、米国人が「加害者」意識に苛まれることを防ぐという配慮がなされていたのであり、我々日本人としては、この米国の責任回避の姿勢をこそ厳しく追及しなければならないのではないかと提起しておいたのであった。

 さて今回は、今も原爆の後遺症で苦しむ人々が暮らしている日本という国、特に広島(長崎)に対するある意味での「被害者」である米国の大統領が行った演説としてみた場合、「広島演説」が十分な内容であったのか、検証していきたいと思う。

 先回の最後にも述べたように、「広島演説」では原爆投下の事実をあたかも「物語」であるかのように、語り手の制御できない架空の世界で起こった出来事であるかのように、語るという「技巧」が施されていた。冒頭の部分、特に” death fell from the sky”(死が空から降ってきた)などは、「物語」的である以上に、あたかも原爆投下が自然現象であったかの印象を意図的に与えようとしているのではないかと勘繰られても仕方のない表現にもなっている。これはもちろん、オバマ大統領が米国世論に配慮した結果には違いないが、これを我々日本人はどのように受け止めるべきなのか。

 もちろん、その受け止め方が、米国人と同様であっていいはずがない。なぜなら、原爆投下という事実だけを抜き出せば、我々日本人は明らかに「被害者」であって、米国人は「加害者」であるからである。米国では、いまだに原爆投下を正当化する議論、原爆投下によって戦争が早期に終結した結果、米国軍人の命はもちろんのこと、日本人の命も多数が救われたのだという議論がなされている。しかしこのことは、原爆の悲劇を自らのこととして受け止め、その苦難の道を歩んできた我々日本人にとっては、到底それだけで受け止められるものではない。原爆投下による被害をリアルに知り抜き、その苦痛を今でも受け続けている被爆者や遺族にとっては尚更である。だからこそ、原爆の事実をヨリ多くの各国首脳に知ってもらいたい、特に原爆投下の当事者である米国の大統領に知ってもらいたいとして、米大統領の広島訪問が熱望されていたのであって、現にオバマ大統領の広島訪問が“歴史的”といわれているのである。原爆の悲惨さを知ってなお、原爆投下を(少なくとも人道的観点で)正当化し続けられるか、ここが今回のオバマ大統領の広島訪問で問われた本質的な部分であったのではないか。

 こうした点から見れば、端的にいえば、「広島演説」は被爆国からすれば全く不十分な内容であったといわざるを得ない。「物語」的表現を隠れ蓑にして、米国の原爆投下を覆い隠し、米国の判断でなされた原爆投下を、あたかも人間の意志が介在しない自然現象のように言い張るなどということは、非人道的な核兵器を使用した責任から逃避しているということ以外何でもないのである。人道的見地からの謝罪があってしかるべきところを、責任逃れのために格調高い「哲学的な表現」で内容の曖昧さを見えなくしてしまっている、こうした側面があることを我々日本人は許してしまってはならないのである。

 「広島演説」が不十分でることは、以上の点に限らない。以下にいくつかの点を見ていこう。

 まず、「広島演説」が目指す未来は、戦争そのものがない社会なのか、核兵器の廃絶なのかが曖昧な点である。「広島演説」では、「戦争」(=”war(s)”,”warfare”)という言葉が16回使われているのに対して、「核兵器」(=” nuclear weapons”)や「原爆」(=” the atomic bomb”)を意味する言葉は、「きのこ雲」(=” a mushroom cloud”)や「原子の分裂」(=” the splitting of an atom”)などのほぼ原爆や核兵器のことを表しているといえる言葉を含めても、6回しか登場しない。さらに象徴的なのが、爆弾(=”the bomb”)、拡散(=”the spread”)、死の物質(=”deadly materials”)などのように、核や原爆という言葉を意図的に避けている印象がある言葉が使われていることである。ここには、被爆地広島の現実に真摯に向き合おうとする姿勢が見られず、ただひたすら原爆投下の正当性を主張するアメリカ世論へ配慮しようとする姿勢のみが見られるといえるのではないか。わざわざ被爆地広島でメッセージを発信するのであれば、広島の悲劇を戦争一般に解消してしまうような姑息な表現を用いずに、核兵器の廃絶に焦点を絞った内容のメッセージを発信すべきであったともいえるだろう。

 次に、焦点が絞り切れていないということでは、前回の初めに引用した、「物語」(=”story”)という言葉が直接使われている箇所に関しても同じである。ここでオバマ大統領は、生存権、自由権、幸福追求権などが保障され、全ての人間が平等に扱われるような社会、全ての人間の価値が認められ、全ての人間の命が大切にされ、人類が1つの家族のように扱われる社会の実現を目指すべきだと述べているのであるが、これも一般論としては否定しようがない内容であるものの、「広島演説」の中に配置されてしまうと、どうしても一般的すぎる表現に思えてしまうのである。よく読めば分かることであるが、この部分には核兵器や原爆という言葉はおろか、戦争という言葉すら使われていないのである。人権の尊さという抽象的な理念を語るだけで、内容がぼやけてしまっている印象が拭えない。

 最後に、連載第2回で取り上げた「選択」の中身に関しても、非常に抽象的であるといわざるを得ない。オバマ大統領は「広島演説」の締めくくりの部分において、我々人類の「選択」如何によって、戦争のない平和な世界が実現できるのか、核戦争によって世界が滅んでしまうのかが決まってしまうのだ、平和な世界の実現に向けてこそ努力しなければならないのだということを説くわけであるが、この中身はよく考えてみると、核戦争の未来ではなく、平和が実現した未来を「選択」しようではないかというありきたりな、抽象的な内容であって、その平和な世界の実現に向けてどのような道を歩むべきかという、「プラハ演説」で提起されたような具体的な中身は何もないのである。被爆地広島での演説であれば、核兵器廃絶への具体的な道筋を示すべきであったといえよう。

 以上見てきたように、「広島演説」では焦点をぼかした表現を多用することで、非人道的な核兵器を使用した米国の責任を回避し、当然謝罪の言葉もない、そもそも原爆の悲劇を戦争一般の悲劇に解消してしまっているというように、被爆地広島から発信するメッセージとしては非常に不十分な内容であると評価できるのである。





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最終更新日  2016年06月27日 08時52分35秒
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ガラスの玉は、本物の真珠をきどるとき、はじめてニセモノとなる。

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