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ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

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2016年10月24日
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カテゴリ:言語学
(13)科学的な言語学体系の創出を目指して

 前回は、改めて本稿の内容を振り返った上で、三浦の言語理論の歴史的意義(*)について考察しました。端的には、弁証法を駆使して、言語における矛盾の構造を解き明かしたのだということでした。

 ここで、連載第1回に取り上げたレスリングの吉田沙保里選手の言葉を思い出してみましょう。吉田選手は、五輪4連覇を逃した決勝戦の後、涙ながらに「取り返しのつかないことになってしまった」と語ったのでした。この言葉を表面的に、言語の「意義」として把握すると、「失ったものを取り戻すことが不可能になってしまった」というようになると思います。しかし、こうした把握では、内容があまりにも抽象的であって、吉田選手が思い描いていた認識を部分的にしか捉えられていないということがいえるでしょう。それでは言語の「意味」、すなわち内容全体を捉えるとどうなるでしょうか。そのためには、観念的な自己を吉田選手の立場に立たせ、吉田選手の認識を追体験する必要があります。こうした過程を経ることによって、亡き父との約束を果たすことができなかったからこその「取り返しのつかないことになってしまった」という表現なのだということが分かるのです。連載第1回で述べた「取り返しのつかない」という表現に関する分析は、論理的にいえばこのようになるわけです。

 それでは、三浦の言語理論でもって言語学は完成したのだといいきることができるのでしょうか。実はそうではないのです。連載第2回に示した『認識と言語の理論』の目次をご覧いただければ分かるように、三浦は本書で言語に関する諸々の問題を一応の筋を通して説いてはいるのですが、科学的な言語学体系としては不十分だといわざるを得ないのです。三浦が本書を執筆した当時の、個別的な言語に関わる論争に関わる記載が、論理的な展開と並列されていたり、言語表現の過程的構造を説くにしても日本語についてのみ解説されていたりと、体系だった流れとはなっていないのです。何よりも、言語の一般的な概念規定がない、言語の本質論がない、というのが決定的に不十分な点として指摘されなければならないでしょう。

 三浦は『認識と言語の理論』第3部p.53において、自身が「言語理論の建設を目ざすようになった」理由について、「根本的にはまだ一般論すら確立されていない分野で仕事をしてみよう」、「言語学者の手におえない難問題を解決してやろう」ということがあったと述べています。では三浦が措定した言語の「一般論」とはどのようなものなのでしょうか。果たして本当に言語の「一般論」が説かれているのでしょうか。pp.56-57には以下のように述べられています。

「感性的な音声や文字を使って超感性的な一般的な認識を直接に表現しなければならぬという言語の矛盾から、特定の一般的な認識にはつねに特定の種類の音声や文字を対応させて表現するよう強制する規範が欠くべからざるものとなり、この規範による表現の媒介という特殊な過程の存在こそ、言語における矛盾がもって自らを実現するとともに解決する運動形態である」


 確かにこの規定は、言語がどのような過程を経て創出されるのか、その必然性も含めて言語の特徴をよく表しているといえるでしょう。しかし、この規定を読んだだけでは、言語とは何かの本質は理解できません。言語の「一般論」といいながら、言語とは何かを本質レベルで説けていないといわざるを得ないのです。それはつまり、言語がどういうものであるのかについて、一言で言い表したような概念規定ができていないということです。言語の本質論がなければ、そこから体系的な構造論を展開し、科学的な言語学体系を創っていくことはできないでしょう。さらにいえば、人間が言語を創出した歴史的必然性についてや、言語が表す認識はどのような過程で人類の頭脳に生成してきたのかについては、つまり言語やその基盤となる認識の原点については、論理的に筋を通して説かれてはいないのです。三浦の言語理論は、言語を矛盾として把握し、静的な構造を解明しただけであって、こうした言語や認識の原点から論理的に把握し、なぜ言語学を創出する必要があるのかを現代社会の諸問題も絡めながら説ききれるような科学的な言語学体系にはなっていないのです。厳しくいえば、弁証法を適用して言語の謎の一部を解き明かすことができましたという以上の言語学創出に対する情熱がなかったのだといえるでしょう。

 それでは最後に、筆者が考える言語の仮説的一般論を示しておきます。

「言語とは、人間が精神的交通を可能にすることで社会的労働を統括し社会を維持・発展させられるよう、社会的認識を媒介することで概念を音声や文字の類的創造として物質化した表現である。」


 この言語の仮説的一般論は、日常的なコミュニケーションにおける言語がどのようなものかを規定するのみならず、連載第2回で触れた人間の本質的なあり方、すなわち認識によって集団生活を統括するという人間のあり方における言語の役割をも規定していると考えています。

 さらにいえば、これまで人類が獲得してきた文化を世代を超えて継承し発展させる上で、言語が果たしてきた大きな役割についても内包していると思います。言語のように、抽象的、一般的な認識を表現する手段なくしては、学問の発展もあり得ないといえるでしょう。人類が長い年月をかけて獲得してきた文化遺産を継承し、さらに発展させていくためには、どうしても言語が必要になってくるのです。

 言語は単なるコミュニケーションの手段ではなくて、こうした人類の生成発展の流れと共に生成発展して、社会の維持・発展に欠かすことのできない役割を担っています。人間の社会の土台であり、全ての学問の基礎であるこうした言語の本質的な役割をしっかり踏まえた上で、言語の本質論が統括する科学的な言語学体系を創出することを決意して、本稿を終えたいと思います。

(*)三浦の言語理論を言語研究史という角度から評価すると、ソシュールの「ラング」と「パロール」を統一したのだともいえます。ソシュールは言語の持つ2つの性格を分けて把握し、それぞれに「ラング」と「パロール」という名前を付けました。言語の社会的・精神的・体系的な性格を「ラング」と呼び、言語の個人的・物理的・個別的な性格を「パロール」と呼んで、全く別の実体として把握したのです。「ラング」は頭の中にあり、「パロール」は現実の世界の中にあるというわけです。そして「ラング」は他の全ての記号と異なるという関係において、自らを同定する記号の体系だと捉えたのでした。また、「パロール」は物理的なあり方が問題であって、言語の本質からは外れる存在だとソシュールは考えたのでした。詳細については、本ブログに掲載した「文法家列伝:ソシュール編」を参照していただくとして、このソシュールの把握は、言語を言語表現と非言語表現との統一だとする三浦の把握に、今一歩のところまで迫ったものだと評価することができます。つまり、言語には2つの性格があることを見抜いたものの、音声や文字そのものに種類という側面があることを把握し切れず、言語の本質たる「ラング」を頭の中にある記号の体系に解消してしまったのでした。三浦は、音声や文字の中に「ラング」的な性質である言語表現と、「パロール」的な性質である非言語表現とが、不可分に統一されていることを見事に指摘したのでした。

(了)





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最終更新日  2016年10月24日 09時44分28秒
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ガラスの玉は、本物の真珠をきどるとき、はじめてニセモノとなる。

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孤独を恐れ孤独を拒否してはならない。名誉ある孤独、誇るべき孤独のなかでたたかうとき、そこに訪れてくる味方との間にこそ、もっとも深くもっともかたいむすびつきと協力が生まれるであろう。また、一時の孤独をもおそれず、孤独の苦しみに耐える力を与えてくれるものは、自分のとらえたものが深い真実でありこの真実が万人のために奉仕するという確信であり、さらにこの真実を受けとって自分の正しさを理解し自分の味方になってくれる人間がかならずあらわれるにちがいないという確信である。

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