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ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

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2016年10月23日
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カテゴリ:言語学
結論
(12)三浦言語学は言語を矛盾として把握した

 本稿は、認識を正しく伝える言語を創っていくためには、あるいは言語に表れている認識を正しく把握するためには、認識と言語とのつながりをしっかりと把握する必要があるという問題意識のもと、三浦つとむ『認識と言語の理論』を読み進め、三浦の言語理論の歴史的意義を明らかにするとともに、科学的な言語学体系を構築する土台を築きあげることを目的として執筆する小論です。これまで三浦が、言語の問題を解くためにまずは認識の理論を説いていったこと、認識から表現への過程的構造を明らかにしたこと、言語を二重性で把握したことを述べてきました。

 ここで改めて、本稿の流れをポイントとなる部分を中心に振り返っておくことにしましょう。

 三浦は、言語はまず訴えようとする思想や感情が成立し、それから音声や文字が創造されるという形で生まれるものであるために、言語学のためには認識についての科学的な理論が必要だと述べた上で、認識の個別的性格と社会的性格について説いていきました。認識とは現実の世界の感覚器官を通した模像であって、個人の頭脳にしか描かれないものであるにも関わらず、認識が交通関係に入っていくことによって、他人の認識を受け取り、社会的な性質を帯びていくものであるということでした。認識の基本的な性質を確認した上で三浦は、認識論の2つの柱について説いていきました。1つ目は、観念的な自己分裂という問題についてでした。三浦は、人間の認識は「受動的であり限界づけられていると同時に、能動的に現実に向って問いかけその限界を超えていく」という性質があると述べ、「現実的な自己」から分裂した「観念的な自己」が時間空間を超えて移行していき、そこで捉えた成果を引っさげて「現実的な自己」に復帰することで、認識が発展していくのだと説いていたのでした。もう1つは、規範とは何かという問題でした。規範とは、観念的に対象化された意志であって、心の中から自分自身に命令するものでした。規範は、個人の頭の中にしか存在しないにも関わらず、対象化された意志という形をとるために、個人の独自の意志と対立することがあるということでした。

 言語学に必要な認識論を説いた上で、三浦は認識から表現への過程的構造について説いていきました。三浦はまず、表現一般について、精神の物質的な模像であると規定しました。そして、現実の世界にある物質的な存在においては、実体が直接に内容とよばれるのに対して、表現の場合は、実体は媒介的に内容を形成する存在であるということでした。言語についていえば、言語の内容(意味)とは、認識が言語の形式(音声や文字)と結ぶ関係であって、感性的に捉えられるものではないということでした。続いて三浦は、言語の表現としての特殊性について説いていきました。言語には、言語を規定する社会的な約束である言語規範が必須であって、この規範を媒介するということこそ、言語の表現における特殊性だというのでした。では、なぜ言語には規範が必要となってくるかといえば、それは言語が具体的な感性的な対象のあり方を捨象した認識である概念を表現するものであるために、こういう種類の認識(概念)を表現するためには、こういう種類の音声や文字を使うのだという社会的な約束が言語には必要になってくるのだということでした。さらに三浦は、言語における観念的な自己運動とはどういうものかについて説いていきました。過去の追想や否定判断を用いる場合には、簡単な構造の文であっても、その背後には、観念的な自己が時間空間を移行するという運動が潜んでいるのでした。また代名詞を用いる際にも、観念的な自己が現実的な自己から分離して、聞き手の立場に立つなどの運動を行うのでした。

 最後に、三浦が言語を二重性で把握した中身を見ていきました。まず、表現一般について、客体のあり方のみならず、主体のあり方をも表現している事実を確認し、この客体的表現と主体的表現とが、言語においては分離する可能性があることを見ていきました。これは言語が対象の感性的なあり方から解放された表現であるために、対象のあり方を表現しても、必ずしも主体のあり方を共に表すということにはならないためでした。次に三浦は、言語の「意味」と「意義」の違いを説いていきました。言語の「意義」とは、規範に対応する内容の抽象的・部分的な面であって、言語の「意味」とは具体的な内容全体のことでした。三浦は、言語の「意義」を手掛かりにしてその「意味」を把握する必要があるとして、観念的な自己が表現者の認識を追体験することで、言語の「意味」を掴むことができるのだと説いたことを見ていきました。最後に、言語は言語表現と非言語表現の統一であるということがどのようなことか、見ていきました。三浦は、言語がどのような形で表されようと、一定の範囲に属する限りは同じ言語として取り扱うのだと述べて、同じ種類に属するという側面こそが言語表現であるとしたのでした。一方、同じ種類に属していたとしても、感性的なあり方は様々であって、言語のこうした感性的なあり方の側面を非言語表現と名付けたのでした。

 以上、三浦つとむ『認識と言語の理論』の論理展開を概観してきました。改めてまとめてみると、三浦は、言語とはどういうものかを解明するために、まずは観念的な自己がどのように運動するのかという問題と、規範とは何かという問題とを中心に認識の理論を説いた上で、認識から表現に至る過程を明らかにしつつ、言語を表現一般に位置づけながらその特殊性を指摘し、言語と認識との関係を繙いてきたといえると思います。

 ここで三浦の言語理論の歴史的意義を問えば、それは徹底して言語を矛盾として把握しようとしたことだといえるでしょう。三浦は弁証法を「物ごとの本質そのものにおける矛盾の研究」(『弁証法はどういう科学か』p.25)だと述べていますが、それを言語において実践したことが大きな成果であるといえるということです。「矛盾の本質は、ある事物が対立を「せおっている」という関係」(同上書p.276)だと説く三浦は、言語においては超感性的な認識を感性的な音声や文字として表す必要があるという根本的な矛盾があるという把握のもと、言語における3つの二重性、すなわち客体的表現と主体的表現との二重性、意味と意義との二重性、言語表現と非言語表現との二重性を解き明かしたのでした。言語の根本矛盾を解決するためには、音声や文字を種類として創造する、つまり言語表現と非言語表現との統一したものとして創造する必要がありました。これを実現するためには、規範を媒介するという認識の運動が必要不可欠であって、この規範を媒介するという手段を創出することは、直接に言語の「意味」と「意義」とを二重化するということだったのです。こうした言語の過程的構造を創出したことは、対象の感性的なあり方に縛られない表現が可能となったことを意味し、結果として客体的表現と主体的表現の分離という言語の特殊性が生じてきたのでした。





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最終更新日  2016年10月23日 20時37分39秒
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