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ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

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2017年01月26日
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カテゴリ:学一般
(11)「悟り」と一般論との共通性とはどのようなものか

 今回取り上げるのは、井上真紀先生による小説である。前号の続きとして、今回も「悟りへの道を考える」ための内容が展開されている。

 以下、本小説の著者名・タイトルである。(本小説にリード文はない。)

井上真紀
青頭巾―『雨月物語』より(下)
―悟りへの道を考える(2)


 本小説のあらすじは以下の通りである。

 夜になり雨が降り出した。座禅を組んだ西庵のもとに、昼間の青年僧が歩み寄る。昼と違い、髪は肩まで届き、髭におおわれ、血走った眼だけが光っている。西庵を探し出そうとしているようであるが、本尊の真ん前に鎮座しているのに目に映らないらしい。西庵が呼びかけやっと気づいた住職は、自分と白菊丸との寺に土足で入り込んだ西庵に我慢ならず飛びかかるが、西庵はその鼻面を杖で撲りつけ、白菊丸に住職を救ってくれと言われてここにやってきたことを話し、静かに語り始めた。―紀清(西庵の俗名)は主人の奥方に歌を披露し褒められた上、御簾の隙間から白い横顔をちらりと見て以来、恋に落ちてしまった。22の紀清には妻子もいたが、恋慕がつのるばかりであった。その後幾度か、人のいないときに声をかけられ会ううちに、ますます思いは募る。そしてとうとうある夜、奥方腹心の侍女に連れられて、紀清は邸奥の寝所へ引き入れられた。その一夜、ついに願いがかなったが、その後奥方は手のひらを返したように、邸の奥に引きこもり、紀清に姿を見せることがなくなってしまった。そのため余計に心が乱れた紀清は、いつか手引きをしてくれた侍女をつかまえ、その情熱を訴えると、老境の侍女は「奥方様は、『あこぎの浦ぞ』とおっしゃっておれらます」とそっけなく告げた。さらに今までこっそりと何人の殿方を通わせたことかと紀清をさげすむ。それでも思慕の念が激しさを増した紀清は、自殺や心中を考えるが、とうとう23歳で出家し、自分の心を歌にして吐き出し続けた。風の便りにあの奥方も40代の若さで亡くなったことを聞いたりもして、あるときふと気づいた。あの人はここにいる、月も花も雨水もすべてあの人の変わり身だということに。―話を終えた西庵は住職に声をかけるが、そこには誰もいない。翌朝、本堂の中に住職が身に着けていた青い頭巾が落ちていたのを拾って寺を後にした西庵は、あの夜、枕元に現れた稚児に礼を言われた。稚児は畜生の身に生まれ変わると言い残して消えていったのである。

 この小説に関して考えてみたいことは、副題にもある「悟り」についてである。

 まず、「悟り」とはどういうことかを考察してみたい。この小説は非常に捉えどころがなく、「悟り」の手がかりがないようにも思えるが、読んでいくと少し気になる表現がいくつか出てくることに気が付いてくる。それは、住職が目の前にいるはずの西庵を見つけられない、あるいは見失うという場面が描かれている部分である。

「座禅を組んだ西庵は、昼間の姿勢のまま、彫像のように身動き1つしていない。端然とし得て静謐なる様は、埃に覆われたこの堂の本尊と同じ有様である。」(p.153)


 昼間の姿とは違った、まるで鬼か怪物かにでもなってしまったかのような住職が初めて登場する場面の西庵の描写である。この西庵を住職は目の前にいるにもかかわらず見つけられないのである。

 もう1つの場面は、住職が、自らが喰ってしまった白菊丸と一心同体だと主張するのに対して、西庵が「白菊丸は、そなたと共にはおらぬよ」と反論したことに激高して、西庵に飛びかかる場面である。

「西庵は、その刹那、すうと眼を閉じて、心をある境地に集中させた。」(p.156)


 そうすると飛びかかった住職は、途端に目標を見失ってしまうのである。

 こうした住職が西庵を見失う場面の描写に加え、西庵が出家して最後に辿りついた境地についての以下の説明を合わせることで、「悟り」とはどういうことかが見えてくるのである。

「そしてあるとき、ふと気付いた。自分はあの人を手に入れられないと苦しんで悲しんでいたけれど、そうではないではないか。あの人はここにいる。自分とともに、ここに存在している。自分が歌を詠もうと眺める月も、桜の花も、天からしたたる雨水も、すべてあの人の変わり身だ。眼を閉じれば、静かになった自分の心に寄り添って、いや、自分自身を包み込むようにしてあの人が存在するのを感じられる。」(p.161)



 つまり、先の描写とこの引用部分を合わせて考えるならば、「悟り」とは主客合一、自分も相手も、全ての自然も何もかも、結局は自分自身と同じものだと知ることだということになろう。自分が思慕した奥方は、奥方としての姿であるのではなくて、そこにもここにも様々な形で自分の前にいるのであるし、さらにそれらは自分を包んで自分と一体化しているのだという境地こそが「悟り」であり、だからこそ上の場面では住職が西庵と他のものとの区別がつかずに、西庵を見失うことにもなってしまったのである。

 では次に、この「悟り」ということと、本稿のテーマである「一般論を掲げての学びの重要性」ということとのつながりはどのようなものか、この問題を考えておきたい。答えを端的にいえば、それは「一」ということになる。どういうことかというと、「悟り」の境地においては、自分も自分以外のものも全ては一体化しており、区別し難く結びついていたのであるが、これは全ては「一」ということである。一方、学問における「一般論」に関しても、これは自らの対象とするものの全てをここから問い、全てをここに収斂させるべき「一」であって、哲学でいえば、世界の森羅万象の本質、根本原理、ヘーゲルのいう「絶対精神」である。だから、「悟り」の境地に達したということは、学問の世界でいえば「一般論」を措定し得たということであり、この物語に即していえば、西庵が出家してから諸国を巡り、寺社を訪ね、参禅し、歌を詠み続けた末に到達した主客合一の境地というのは、学問を志し、大志・情熱を持って論理能力を磨くとともに、自らの対象とする学的世界に格闘レベルで関わる中で、遂に到達できた「一般論」であるといえるのである。さらにいえば、この物語で西庵は、主客合一の境地に達してからも研鑽し続けているように、そしてその境地を語るという実践を続けているように、我々も学問の世界において、仮説的に捉えた「一般論」を高く掲げて、そこから自らの専門分野の対象に問いかけ、深めていった構造を世に問うていくという実践が必要になってくるのである。ここを端的にいえば、「一般論」を措定してからがスタートであって、ここから学問の道が始まるのだということである。

 我々京都弁証法認識論研究会は、長年の研鑽をふまえて、やっと今スタート地点に立ったという認識を踏まえて、今年1年を大きく飛躍の年と位置付け、研究会の機関誌の発行を目指して歩んでいることは、今年の年頭論文「年頭言:機関誌の発刊を目指して」で説いた通りである。全てを自らの問題として考察し続けていくことで、自らの学問を創出していく決意を改めて述べておくこととしたい。





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最終更新日  2017年01月26日 06時00分05秒
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ガラスの玉は、本物の真珠をきどるとき、はじめてニセモノとなる。

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