私はかなりの重症だった 2
ことの発端http://plaza.rakuten.co.jp/yuuka131/diary/201103030000/ 1http://plaza.rakuten.co.jp/yuuka131/diary/201103040000/2 ~魂の傷~これしか知らない医大を卒業して国家試験を受けると、医師という肩書がつくようになった。おままごとから、医師が私の本物の職業になった。正しく、誠実で、よい人でありたい、人に好ましく思われたい、よい先生だと思われたい、と私は普通に思っていたので先輩医師の言うことには素直に耳を傾け患者さんの話はよく聞き、看護師さんやセラピスト達から多くを学んだ。同期と遅くまで病棟にいて細かい雑務から緊急時の対応まで様々なことを身につけていった。それなりにはくをつけいい先生、安心な先生、と評価されるように努力した。そして、努力のかいあって、おおかた、その部類に分類されてきた。私は、専攻したリハビリテーション科で、主に神経疾患、脳血管障害、先天性・後天性障害、など難病やそれに近い病名の多い患者さんをたくさん診察した。24歳で医師になり、病気、障害、そして生きる、ということに深く打ちのめされながらも、それにどう対処したらいいのか知ることもなく学ぶこともなく私は傷つかないように「感じる」ということに無意識にふたをしていた。生きること自体大変なことでさらに原因も治療法も発見されないまま治る、治す、というゴールが見えないまま毎日毎瞬よい先生でいることが現実的にかなわなかった。よい先生を目指していたのに、治すこともなく妥協案を提示さざるを得ない自分の仕事振りに半ばいらだちながら半ば哀しみながらそれでも、いい先生であろうとますます知識と知性を重視していった。医師になって3年、医大の同級生と長い交際を経て結婚し、もう仕事はしなくてもいい、とホッとしたのを思いだす。おこ遣い稼ぎに健診のアルバイトをしたりして家庭に入り、今度はいい先生ではなく、いい奥さんになろうと実現可能そうなゴールを再設定できて幸せだった。お料理を習い、今度は患者さんにではなく夫に喜んでもらうことが第一の目標になった。ふりかえると、私にとっての大きな転機はすでにこの時から始まっていたように思う。もちろん今回この世に生を受けてからのすべてがわたしにとってなくてはならないかけがえのない人や経験だけれど大きな節目の種はまかれていたのだと思う。3月に結婚してすぐ妊娠して、翌年2月に長男を出産した。世間からみれば、私たちは幸せにみえただろう。実際私は幸せだと感じていたしだいたいそんなに深く考えることもなく生きていた、というのが本当のところだ。これで私は、よい先生、よいお医者さん、という役割から妻になり、母親になった。そして今度も、よい妻でよい母親になるべくありとあらゆる努力を始めた。よい先生、で満点をとることができなかった私はその役割から逃げ出したかったのだと思うけれど「優等生」、いつも「正しく」、できるだけ「完璧」でという目標設定は私の信念の中に深く、変わらずにあったため、私はまたしても自分が何を「感じて」「どうしたいのか」には目もくれず、ただひたすら走って毎日毎瞬を過ごしていた。よくよく考えて、時間との勝負、合理的に、無駄なく、を生きるための柱としていた。大切なことは、ほとんどの場合、こういう信念に自分は氣がついていない、ということだ。自分では正しくあろう、そうでなければ私は生きている価値がない、などと思っているとは氣付いていない。けれど、この無意識の信念に行動がすべてコントロールされている。生きることの中で、ほとんどこれしか知らなかったのだから当たり前だけれどこのあり方の中で、わたしの魂の傷は大きく意識に浮上しつつあった。いろいろなことをカオスとしてしか観ることができなくて私は周囲の人やものや環境や多くに非難と攻撃とを心の中に育て同時に、自分自身を深く責めて、罪深い人間だと嫌っていた。毎日をそれなりに過ごし、それなりに生活がまわり、それなりに幸せでそれなりに家族ができてきつつあって、けれども私はひどく混乱の中にいた。そして、今思うと、それを教えてくれている役割の人や出来事があったにもかかわらず私は心の眼をつぶしていたために、私は相変わらず環境や他人の非難をして自分を守るだけに終始していた。ようやく、魂の傷をみつめる準備ができたのはまだこの何年も後のことになる。まずみつめる前に、傷を味わうことが必要だった。私はかなりの重症だった。(続)