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カテゴリ:国語科目標・構造・計画・言語意識直結観
国語の時間が、大変、嫌いになったのは、中学になってからでした。 小学校では、国語といっても、何を教えられたのか、覚えていません。 漢字の練習を辞書を引きながらやったことは、思い出されます。 この辞書引きは、自分でやるという事が出来ます。 やらされているというものではないですね。 だから、救いはあったのでしょう。 ところが、中学に入ると、国語の時間が、退屈な時間となってしました。 それは、先生の話を聞く、この事がおもな授業だったからだと 今は、客観的に見ています。 先生は、熱心でした。 熱心のあまり、自分が教えたい事を 真剣に話します。 大學を終わったばかりの先生でした。 生徒が、自分の話を、 どのように思いながら、聞いているのか、その反応を見ながら 話す余裕がなかったのでしょうね。 こちらは、中学生ですから、いろいろな思いがある訳です。 その思いと先生の話がからみ合いながら授業が進めば、 面白かったのでしょうが、・・・・・・。 僕の方で、 「先生、質問があるのですが・・・・・」 「そのことについてこう考えるのですが・・・」 「・・・・・・」 など、出せば良かったのでしょうが、 その力は、僕には、ありませんでした。 とにかく、聞く一方の授業でした。 でも、このような聞く一方の授業は、 国語に限らず、数学などでもありました。 黒板に書いて、説明し、ドンドン進んでいく先生もいました。 このことは、学校だけではなく、 ピアノの先生についた時にもありました。 農家の仕事をしていて、どうやるか分からないので、 まごついていると、怒られることでもありました。 でも、これらの中で、一番、印象的に残っているのは、 中学の国語の時間です。 それは、時間が、多かったからでしょうね。 最近、このことに関係する中学校の国語科の2人の先生の 論文を読みました。 教育の荒廃を言われながらも、時が経って、着実に 国語教育の論が前進している事が伺えうるものでした。 5日に、東京品川区で、高2が、5人に切りつけました。 学校教育と結びつけるのは、短絡的ですが、 まったく、関係ないとは言えないでしょうね。 続きます。 多くの方に読んでいただきたいので、 ランキングに参加しています。 下のマークの応援クリックして下さると、うれしいです。 1日1回、有効です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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