もっと緑響くレストラン2

2011/10/30(日)02:16

岩城滉一にはがっかり

先日、マヤ暦が終わりを告げ、世界が終焉すると言われていましたが、特別な事は 何も起こらなかったですね。ヨーロッパの一つの村に生き残る為に、人々が集結したとか 聞きましたが、そこまでして何で生き延びたいのかが私には理解できない。 例えば、今この瞬間に町や人々が消滅したとしましょう。電気・ガスなどの全てのインフラが 無くなり、草木広がる草原や山や海だけになりました(無人島の様な状況)。 そこで手始めに、食料はどうする?仮にキノコが目の前にあったとして、見た事も無い 品種であったら、それを食べられるであろうか?仮に目の前の木に果実が実っていたと する。その果実は見た事も無い品種の極彩色だったとして、それを手に取り食べられる だろうか?理性が働いている間は、中々勇気が出ないのではないだろうか。 理性が無くなるほど追い詰められたら、空腹を満たす為に、一か八か手を出すのだろうが、 そんなになってでも生きていたくは無い。最初の瞬間に、あっさり死んでいた方が 気楽である。 現在、普通に食べている自然食品で、見た目に凄い物を見るたびに、最初に食べた人は 凄いなぁと、いつも思っている。高級品の「ふぐ」なんか、最初に食べた人は、きっと 毒である「テトロドトキシン」で亡くなったであろう。文明は機能していてありがたい。 先日、日本テレビの番組で「火曜サプライズ」にゲストで出演していた岩城滉一さんには ガッカリした。チョイワルでカッコ良く、色んな楽しい事を知っていたりして、破産して いるのに凄い人だと思っていた。 昔、日産スカイラインGTSのCMで「エリーゼのために」を編曲・監修したセンスは 凄いと思っていた。初の可変スポイラーが話題になった、スカイラインGTSに自分が 乗っていて、そのCMソングは誇らしく思えた。 そんな大物タレントだし、旨いものをいっぱい食べて、それなりに舌がこえているのだろう と思っていた。好きなバイクのツーリングで香川県に来て、讃岐うどん巡りをするなんて 前フリで、色々期待していた。 最初に行った店は、三嶋製麺所。映画「UDON」でも最初に登場する、中々レアな 店である。そこから責めて来たかとテレビを観る。次に向かうは釜玉発祥の「山越」さん。 王道を責めて来たかと観ていたが、ここで岩城氏が口にした言葉に驚く。 「あれ?さっきの店と、うどんの味が違うぞ。」 この言葉にガッカリした。使用する小麦粉や塩、作っていく行程で、うどんの味は店に よって千差万別。あまりにも当たり前過ぎる事。なあんだ。バカ舌なんだ。ガッカリした。 その後、行きつけの焼肉屋に行って、「どうだ。旨いだろう。」なんて言うが、 これも判ってないんじゃないのと思う。 お店の肉は讃岐牛のA5を使用している。最近グルメ番組は、肉ならA5を使用していれば 凄いなんて風潮で放送しているが、それは料理や肉の旨味を味わう状況によって、正しい 選択では無い場合がある。A5でサシが入っていると、脂の甘味でみんな旨いと言うが、 肉の本当の旨味は赤身である。例えばすき焼きなどの料理で、脂だらけになって旨味が 判らなくなってしまうのを避けて、わざとA4ランクの肉を使用したりもする。 肉の本来の旨味を知らない人は結構多い。 逆にテレビ番組で、みのもんたの「ケンミンショー」を観ていて、感心した事もある。 先日放送された、広島県民が30年も前から食べている、「うにほうれん」。 ほうれん草をバターで炒めて、その上にウニをたっぷり乗せて食べる料理。出演者は 「こんなの見た事無い。」なんて言っていたが、フランス料理に普通にある。 フランス料理の一つにほうれん草とウニをグラタン皿に入れて、ホワイトソースをかけて オーブンで焼く。これがかなり旨い。 他県民の出演者は「ウニがトロリと溶けて美味しい」なんてコメントをしていたが、 あれはバカ舌のタレントが目で見えている事を言葉にしただけ。舌からの味わいを感じて 言葉にした訳ではない。 その点、広島出身の竹原さんは「ほうれん草に絡んだバターとウニのマッチングがいい。」 とコメント。さすが地元の食べ慣れている人は、判って味わっている。 この料理のポイントはほうれん草に乳製品を絡ませて、ウニを乗せる事で生じる旨味が 素晴らしいのである。だからバターやホワイトソースなどが必須アイテムの料理と言える。 広島県民の方々は凄いです。 そんな事を考えていたら、朝になった。ちょっとお出かけする。大阪の新幹線操車場に 朝の6時44分に行って見ると、今や「こだま」として運転されている500系車両が 出庫し始めていた。「こだま737号」広島行きである。うにほうれんとカキフライでも 食べに、広島に出向こうかな。 今日は朝から雲ひとつ無い青空が広がる。仰向けになり空を見続ける。気を集中させる。 沢山の魂が、まるで顕微鏡で見た男性の精子が、空一面動き回っている様である。 毎日、自分が決めている神社や寺院の神様に手を合わせ、拝みに行っている。 最近、手を合わせお話をさせて頂く時間が長くなってきた。色んな事を詳しく報告する 為なのだが、気を集中させる時間が長く、いくつもお参りする為に、ヘトヘトになる。 でも、毎日それを行っていると、その遥か遥か先に瞑想の域があり、更にとてつもなく 遥か先に無の境地があるのだろうと思える。 まだまだ俗物の私には、無縁ではあるが、毎日手を合わせ、お話をさせて頂く事で、 生きている事の必要性があるのだろうかと、改めて考えさせられている。 それは命を絶つという意味ではなく、生きる事を選べぬ時、もしくは選ばぬ時と言う意味。 どちらも同じ「死」を意味するし、方向性も違う様に見える。 しかし、選べぬ者と選ばぬ者の想いの方向性、もしくは互いの必要性において、 行き着く先が同じである場合が、情として許されていい場合があって良いのではないかと 思う。それは現世に生きる人間において、司法の場でも有意されている様に見受けられる。

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