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2011年10月22日
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カテゴリ:カテゴリ未分類
駅前のホテルを出る。静岡の事をあまり知りませんでしたが、109もマルイもあるし、
パルコまであるし、かなり都会です。ぶらぶら歩いて駿府城まで行きました。
駿府城址と言われる様に、確かに何にも無し。御幸通りに戻って当初の目的地である
浅間神社に向かいます。浅間通りのアーケード街を歩きます。色んな店があるんですね。

静岡市葵区にある、静岡浅間神社(しずおかせんげんじんじゃ)は、通称おせんげんさま。
正確には、神部神社、浅間神社、大歳御祖神社の3社の総称だそうである。同じ場所に
ありますが3社はいずれも独立の神社として祭祀が執り行われています。鎮座地は
静岡市街地に接する賎機山(しずはたやま)の麓に位置します。

神部神社(かんべじんじゃ)は、駿河国開拓の祖神大己貴命(おおなむちのみこと)を祀る、
崇神天皇の時代(約2100年前)の鎮座と伝えられています。国府が定められてからは
国司崇敬の神社となり、平安時代より駿河国の総社とされました。

浅間神社(あさまじんじゃ)は、コノハナノサクヤヒメのミコトを祀ります。
延喜元年(901年)、醍醐天皇の勅願により富士山本宮浅間大社より総社神部神社の隣に
勧請され、以来冨士新宮として崇敬されてきました。

大歳御祖神社(おおとしみおやじんじゃ)は、古くは奈古屋神社と称され、
大歳御祖命(おおとしみおやのみこと)を祭神とし、応神天皇の時代(約1700年前)の
鎮座と伝えられ、元々は安倍川河畔の安倍の市(古代の市場)の守護神でありました。
祭神の大歳御祖命は倉稲魂神・大年神の母神で、別名神大市比売命のことであり、延喜式
内小社で祈年の国幣に預ったとのこと。

三社は鎮座以来独立の神社として扱われ、江戸時代まではそれぞれ別の社家が奉仕してきた
のですが、明治21年、三社別々に国幣小社に昇格し、戦後は神社本庁の別表神社となり
ました。

社殿は江戸時代後期を代表する漆塗極彩色が施された壮麗なもので、計26棟が国の
重要文化財に指定されています。この社殿群は文化元年(1804)より60年の歳月と
約10万両の巨費を投じて建造されたもので、信州諏訪の立川和四郎ほか門弟により
彫刻された花鳥霊獣類は繊細を極めています。特に重層な大拝殿は高さ25メートルで木
造神社建築としては、出雲大社本殿(約24メートル)より高く、まさに日本一の威容を誇
ります。

鎮座地の賤機山(しずはたやま)は、静岡の地名発祥の地として知られ、古代より神聖な
神奈備山としてこの地方の人々の精神的支柱とされてきました。6世紀のこの地方の豪族の
墳墓であるとされている賤機山古墳(国の史跡)も、当社の境内にあります。
また静岡市内には秦氏の氏寺である建穂寺、秦久能建立と伝えられる久能寺など当社の
別当寺とされる寺院があり、その秦氏の祖神を賤機山に祀ったのが当社の発祥であるとも
いわれています。

当地に鎮座して以来、当社へは朝廷をはじめ、鎌倉将軍家、今川、武田、織田、豊臣、徳川
など各氏の尊崇厚く、宝物の寄進や社領の安堵などの事績は枚挙にいとまがありません。
特に徳川家康は、幼少の頃今川氏の人質として当社の北方約1kmのところにある臨済寺に
預けられていた頃から、生涯に渡って当社を篤く崇敬していました。
まず1555年(弘治元年)、家康14歳の時、当社で元服式を行い そして1582年
三河・遠江の戦国大名となっていた家康は、賤機山に築かれていた武田氏の城塞を攻略
するにあたって、無事攻略できたならば必ず壮麗な社殿を再建するとの誓いを立てた上で
当社の社殿を焼き払い、駿河領有後に現在の規模と同程度の社殿を建造したという話が
残っています。 更に家康が大御所として駿府在城時の1607年には、天下泰平・五穀豊穣
を祈願して、稚児舞楽を奉納しました。

以来当社は、徳川家康崇敬の神社として歴代将軍の祈願所となり、神職社僧の装束類も
幕府から下行されるようになるなど徳川将軍家から手厚く庇護されるようになりました。
例えば、江戸時代初期の駿府藩主・駿河大納言徳川忠長は、この賤機山で猿狩りを行い
当社の神の使の猿を狩ったことで、兄である将軍・徳川家光の逆鱗に触れたことが知られて
います。 こうした経緯から、明治初年に至るまでの社領等の総石高は2313石にも
及んでいました。

上記三本社の境内には麓山神社・八千戈神社・少彦名神社・玉鉾神社が鎮座しています。

麓山神社(はやまじんじゃ)は、大山祇命を主神とし、日本武尊を配祀します。
由緒は不詳ながら古来より賎機山山上に鎮座し、俗に山宮と称する。浅間神社の
祭神・木之花咲耶姫命の父神を祀るので、その別宮とされ、従来四本社の一つに列し
独立の神社であったのですが、明治12年7月22日郷社に列し、境内社となりました。
社殿は本殿・拝殿・唐門・透塀を備え、他の三本社と同規模の壮麗な建築で、細部に立川流
の彫刻を置き、漆塗り極彩色を施しています。

八千戈神社(やちほこじんじゃ)は、八千戈命(大国主命)を祀り、相殿に明治6年以降
合祭された十八社十三柱の神々(浅間神社末社九社・大歳社末社三社・麓山神社末社三社・
旧安倍郡城内鎮座稲荷神社・旧安倍郡明屋敷村鎮座国分天神、騎射御霊)を祀ります。
当社は徳川家康の念持仏であった摩利支天像を安置するために造営されたもので、
摩利支天社と称し、徳川家をはじめ幕府が殊に崇敬を尽くし、社殿も本社に次いで造営され
壮麗なものとなっています。明治初年の神仏分離に際して、摩利支天は葵区大岩の臨済寺
(今川家菩提寺)に遷され、八千戈神社となった。昭和5年5月29日の昭和天皇親拝の
折は、両社修繕中であり当社を仮殿としていたため、当社に参拝されたそうです。

少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)は、少彦名命を主神とし、神部神社末社十四社の
神々を相殿に祀ります。当社はもと神宮寺薬師社と称し、薬師如来・十二神将を安置してい
ましたが、明治維新に際して臨済寺に遷され少彦名神社となりました。古来医薬の神として
薬業関係者や病気平癒を祈る人々の参詣が絶えないそうです。

玉鉾神社(たまほこじんじゃ)は、明治9年3月、静岡県内の神職が官許を得て創祀された
神社で、国学の四大人たる羽倉東麿・岡部真淵・本居宣長・平田篤胤の四柱を祀っておられ
るそうです。

様々なパワーを頂き、退散します。


コレだけ歩くとお腹も減ります。地元の食べ物と言えば静岡おでんかなと。

静岡市のおでんは濃口醤油を使い鶏ガラでだしを取った長年継ぎ足しの黒いつゆを使用する
そうです。はんぺんは焼津産の黒はんぺんで、すべての具に竹串を刺し、上に「だし粉」と
呼ばれるイワシの削り節や鰹節、青海苔をかけて食べるらしく初めての体験。
これが「静岡おでん」の特徴と呼ばれ、発音は静岡市周辺での「静岡」の読み方にならって
「しぞーかおでん」と言うそうです。
葵区にはおでん店だけが軒を連ねる飲食店街があり、多くの駄菓子屋でもおでんを販売して
いるそうです。また季節を問わず食されており、夏場のプールなどでも販売しており、
店によっては冬場より売れる所もあるらしい。おやつ、酒の肴、おかずと幅広く食されて
いて気持ちがわかります。
常磐町にある青葉横丁のお店に入ってみました。おでんも旨いけど、焼物なども美味しかった
ですよ。





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最終更新日  2011年10月23日 00時31分16秒
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