二平が何処かからか、徳川の旗差しを数本調達してきた。旗差しを突き立てると、徳川の種子島銃衆と一目でわかる。心も体も一段と引き締まる。3人1組は変わらない。連戦で玉込めの速さは申し分ない処に迄、熟達したし、狙いはまず外さない程上達している。第一陣で突入して来る騎馬衆を抑えれば、徒歩衆はこちらは二倍に近い。この陣を敗れる筈がない。
「勝頼は阿保じゃ」
と虎が吐き捨てる。
「阿保でなきゃ、こちらが困る」
武田勢を見守りながら応じる。
「でなければ何時までも戦は続く。虎を何時までも御内儀に出来ぬではないか」
虎が頬を緩めた。それを合図の様に武田勢が動き始めた。背中に背負った太鼓を、叩き手が背後から叩く。戦の合図だ。太鼓の無数の響きは、悲痛な叫びの様に聞こえた。打ち手の心情が太鼓に籠るのだ。明らかに死ぬ覚悟を響かせている。
「勝頼めは阿保じゃ」
又同じ台詞を虎は呟いた。
「そうでなきゃ、こちらが困る」
同じ繰り言をこちらも漏らす。近習の馬隊が小刻みに早駆けに移った。突破口を造る心算なのは明らかだ。されては面倒な事になる。
「馬を狙え」
馬は高価だから、皆も戦利品にはしたいだろが、こちらの命と引き換えには出来ない。無情の下知だ。
徳川の前に並んだ武田の騎馬衆は、ざっと見て100騎程度と数えられた。その数では突進してきても、三重の壕を乗り越えるまでに、徳川鉄砲衆の餌になるかと目算した。手練れの武士でなくとも、織田・徳川の陣構えを一瞥すれば、直ちに兵を引き下げただろう。にも拘らず、真っ直ぐに突っ込んで来る。狂気の沙汰以外なかった。武田を滅ぼしたいのだとしか考えられなかった。
30間程間がある処から「放て」を始めた。馬に狙いを付けているので、外れる事はない。斉射で数百頭の馬が倒れた。主はそのまま空に放り出される。三度の斉射で騎馬は倒され、残った十数騎が壕を乗り越えられず、いなないている内に種子島の的になった。10間も離れていない距離では討ち損じる事はない。大将首を狙って、持ち場を離れようとする気配の鉄砲衆に、大声で下知する。
「離れるな、玉を込めよ」
先行する騎馬武者衆が悉く倒されても、武田の徒歩衆は突撃を止めない。太鼓は鳴り響く。徒歩衆はそのまま駆けてくる。主だった武者を撃ちぬく。戦いと言えども、覚悟をきめ突き進んで来る者を手心をくれるゆとりはなかった。何も考えず打ち倒す事のみに集中する。武田の徒歩は壕に辿り着く前に、手ひどい痛手を蒙ったが怯まなかった。三重の壕に手古摺っている間に、情け容赦なく種子島と矢が注がれる。
壕を越えてこちらの陣に辿り着ける者も居たが、我等を守っている足軽衆が槍で始末をつける。
先陣の隊を全滅させると、次の隊が太鼓を打ち鳴らしながら、攻めて来る。
明けから暮れまで戦は続いた。討ち死に覚悟でと降りるまで押し寄せる武田勢には感服したが、討ち取るのが徳川の鉄砲大将としての役目だった。三重の壕を乗り越えられ、種子島を達に持ち帰る場面も幾多もあった。虎の鮮やかな一の太刀に幾度も救われた。武田方の間引かれて少なくなった引き太鼓の響きが、聞こえて来た時は拝領の大筒を杖として、縋りついた程だった。流石の虎も胸で荒い呼吸をしていた。
目の前には武田勢の遺体で、野原は埋まり、地面が見えない有様と化していた。武田の討ち死数は1万をこしていた。
が何よりも、虎が激戦の中で手傷を負っていない事に、何よりも安堵した・・・