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カテゴリ:人権
#論考 前回のこの項を書くにあたり、松下政経塾出身の神山洋介氏の論考 ’大日本帝国憲法下における「臣民」の残像’ と言う論考を読んで、伊藤博文が特に、ドイツの法学者グナイストの「一国の政体はその文化、歴史から自由ではない」のだという教えに影響され、且つ「プロシア型立憲君主制を手本とする欽定憲法の制定というアイディア」が、『大日本帝国憲法』の制定について既に、伊藤の念頭にあったのだとする、神山氏の論考に、私は深く感銘を受けた。 伊藤の念頭にあった欽定憲法の残像が、「行政を上とし国民を臣民と見做す残像」を現代にも残すのだとする同氏の論考は、現代の日本にそのまま当てはまるどころか、いまだに遅れた我が国の人権意識に繋がる影響をも残す要因なのではないかと言う、私の思考の暴走をとどめずにはおかないのだ。 神山氏が言う様な、「国民と行政との分断」若しくは「国民と行政との乖離」は、行政は「公務員のもの」「お役所の事」であり「行政は国民のものでは無い」政治は「政治は他人の問題」「憲法には興味があるが、憲法を読んだ事は無い」など、多く日本の民主化を陰で妨げる要因となっていることを指摘したい。 私の知るところによれば日本国民のうち、「憲法を読んだ事がある」人の割合は3割程度である。 一方、「憲法を読んだ事が無い」人の割合は7割程度で、この七割の人達は「憲法に興味はある」にもかかわらず「憲法を読んだ事は無い」のである。 この人達の様な『日本国憲法』を、「読んではみたいが、読んでない」人達が「七割いるのだ」という現状を、私は重視したい。 何故か?私は前項で「憲法周知の義務」を政府が、果たしていないのではないかと書いたが、「政府はこの憲法の発布後、速やかに、これを国民に周知させなければならない」という憲法の定めを、政府が果たさない、若しくは「果たしたくない」ので現状の様になるのはむしろ、当然ではなかろうかという私の憤りは、今もずうっと胸に蟠るのである。 なにか憲法を国民にきちんと教えるに都合が悪い理由でもあるのだろうか?何故未だに日本の公私立学校教育のカリキュラムには高等学校にさえも、「憲法」というカリキュラムが無いのか?きちんとした「憲法」に対する知識が無ければ、例えば、憲法改正など、憲法を変え得る可能性がある判断が必要なときに、国民が、国民投票を政府議会から求められたときに国民は何を以てこれを判断し得るのか?こういう時にこそ、国民が自ら、声を上げなければ何も変わらないではないか。 民主主義の国にあるのならば、何故、国民は「憲法をきちんと教えろ」と、言わないのか? 「なんでも他人任せ」という発想を助長させる要因の一つに私は、憲法周知の問題点があると思っている。 神山氏の指摘に似せて言えば、「政府議会と国民との乖離」は人権を重んじる「憲法」をも、「興味や関心はあるが、読んだ事の無い」七割の人達を生み出した。 「憲法」が「国民のもの」であるという事も知らされずに過ごした、この、七割の国民が「知らぬ間の人権侵害」を起こしてはいないか?人権と言われてもまた、この七割の人達は「憲法」に対する答えと同じ様に「興味はあるが知らない」と言うのではないか。広義において、この国の「枠組み」としての「憲法」であるのみならず、「自分たち国民のもの」である憲法を、繰り返し書くが、七割の国民が「興味はあるけど、読んでない」のである。 民主化は「民主的に行為」する事によってのみ、可能なのにである。そして、民主化こそが、例えば、差別事象を解決し得る可能性があるのにだ。 神山氏やおなじ松下政経塾出身の田草川薫氏の様な人達の指摘する問題点に刺激され、この様な問題点を私も私なりにここに感じたままを、書き留めると同時に、唐突だが、事は「日本人の、日本人による人権軽視」にもつながる問題だと感じていることもまた、これが「覚え書き」であるのを良い事にこれに書き留めたい。 ときに、戦後から今日に至るまでの「日本人の国政選挙の平均投票率は56パーセントだ」という。人権を最大限生かそうとする投票行動さえ、その「国民の投票権が最大限重んじられる制度」にも拘らず、半数近くが棄権したという事になる。 投票と言う制度は最も合理的な選択方法だとも、以前この項に書いた。何故か? 投票という行動が民主的なひとつの「うごき」であるからだ。民主的に行われる投票行動により得られた結果は最も合理的であるからだ。「合目的」に為される選択方法は、なんらかの作為が作用し、民主的な結果は得られないのだ。 「合目的」と書いたがこれは私の「合理的」の対立概念として、以前にこの項に書いたものである。 戦後日本の国政選挙で国民の半数近くがこれを棄権したという事実を踏まえて言えば、棄権するという行為が若し意図的に行われた、或いは棄権した人物が「なんらかの意図を持って棄権した」とするならばこれは、「民主的に行為する」事へのひとつの妨げ、若しくは「妨害」にさえなりかねないものなのである。 改めて、日本の民主化を考え直すこれもまた、ひとつの出発点にはならないか? 私は「民主的に行為したい」者の一人である。民主化を妨げる、何らかの意図や作為が為されるどの様な事態も、今後の日本を考える時に、あってはならないのだと率直に思う。 ここに書き留めた事を元に、「人権意識」ということについて近いうちにもう一度、書く事とする。 日本人の「人権意識」の低さは、おなじ日本人としてとても見過しには出来ない問題だと考えるからである。 単に人権意識についての研修などではとても、事が収まる問題では無く、「国や行政、選挙制度と国民との関係性」でも見たように、何事も「人任せ」「他人事」とする意識が日本人の人権意識の低さにも影響するものだと思われてならない。 類似した事象として「いじめ」の問題もこれと深く関わり合いがあるのではなかろうか?「人権軽視の日本人の意識」こそが「いじめ」をも助長しているのだと私には思えてならないのだ。「いじめ」もまた重大な人権侵害だからである。これをただ「子供の問題」として片付けるのではとても解決できないだろう。 「いじめ」は重大な、人権侵害なのだという意識が日本人の人権意識の低さを変えるカギになるのではないか? いつまで日本は「変われないでいる」のだろうか? 松下政経塾の、神山陽介 田草川薫の両氏に改めて敬意を表し、この項を閉じたいと思う。 松下政経塾 神山洋介氏の論考 大日本帝国憲法下における「臣民」の残像 同 田草川薫氏の論考 憲法で維持する国らしさ~日本と日本人~ を参照した。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023/11/14 05:11:21 AM
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