三日の京都
今日は、いよいよ最終日。 チェックアウトを済ませて、南座へ。 前進座の公演初日。「五重塔」「口上」「魚屋宗五郎」。 『五重塔』は、幸田露伴が25,6歳の時に書いた作品。これが信じられない。 『五重塔』については以前書いた。05年4月23日の文章。該当部分だけ再録しておきます。 京都や奈良に行ってお寺を巡るのは学生の頃からの趣味だったが(その頃から渋い趣味だったのだ。単にジジイであったという説もあるが)、寺の屋根で好きなのは唐招提寺。現在修理中なのが残念。そして、例外なく好きなのが、塔だ。三重塔、五重塔。近くによって木組みをしみじみと見る。これを作った人の頭の中はどうなっているのだろうと呆然とする。 自然災害にも強い。室生寺の五重塔が破損したのは、台風で根こそぎとなった杉が倒れ掛かったからだった。強く、優美で強靭。美がそこにあるという想いを持つ。「室生寺」で検索すると、破損、修理、完成の状況を見ることが出来る。 先日、NHKの番組で、何故五重塔が地震に強いのかを、分析していた。塔の各部分が独立してしなやかに揺れ、結果として揺れを吸収していた。これを千年前の人がすでに作り上げていた事に脱帽する。 仏塔をテーマとした作品で最も有名なのが、幸田露伴の『五重塔』だ。 露伴の代表作、『五重塔』に、最初にチラッとふれたのは、中学校の時に読んでいた学習雑誌(確か『中学コース』)だったと思う。作者の紹介と粗筋が書いてあり、「○○、これを建て、××、これをなす」という締めの言葉が印象に残った。(「江都の住人十兵衛之を造り川越源太之を成す」が本当) ふと思いついて、岩波文庫で読んでみた。 解説に、露伴が『五重塔』を書いたのが26歳の時であったとある。こんな文章どう考えても老大家の文章だろうと思っていたのに、びっくりした。昔の人は26歳でこんな文章が書けたのかと思うと頭の中がぼんやりしてきた。 ある箇所に来て、眼が釘付けになった。以下に引いてみる。 「ゑゝじたばたすれば拳殺(はりころ)すぞ、馬鹿め。親分、情無い、此所(ここ)を此所を放して呉(く)れ。馬鹿め。ゑゝ分らねへ、親分、彼奴(あいつ)を活(いか)しては置かれねへのだ。馬鹿野郎め、べそをかくのか、従順(おとなし)く仕なければ尚(また)打(ぶ)つぞ。親分酷(ひど)い。馬鹿め、やかましいは、拳殺すぞ。あんまり分らねへ、親分。馬鹿め、それ打つぞ。親分。馬鹿め。放して。馬鹿め。親分。馬鹿め。放して。馬鹿め。親。馬鹿め。放(はな)。馬鹿め。お。馬鹿め、馬鹿め、馬鹿め、馬鹿め、醜態(ざま)を見ろ、従順(おとなし)くなったろう・・」 露伴の孫の青木玉さんの文を引用させてもらって、『五重塔』の粗筋を説明しよう。(『上り坂下り坂』講談社、より) (谷中の感応寺は寄進によって建てられたが浄財に余裕があり、塔を建てる事となった)感応寺の建物は、これまた当代一の腕を持つ川越の源太によって建てられている。その関係からみれば、塔もまた源太の手に依るものと考えられたし、源太自身,塔堂建築の総仕上げとして、ぜひにと望んで早々に積り書きも出されていた。 この話が世間に流れ、それまで源太の配下で仕事をさせて貰っていた大工の十兵衛は、仕事の腕は確かだが、世事に疎く、受答が間のびしているため、名をあげられる程の仕事にあえず、嘲りを込めてのっそり十兵衛と呼ばれていた。この鈍間(のろま)くさい男が、何を思い詰めたか五重塔を建てたいと,夜の目も寝ずに精巧な塔の雛形を作り、遮二無二朗円僧正の慈悲にすがって懇願した。 朗円上人は、源太、十兵衛二人に仏話を語って互いに譲る心から生じる高い次元の喜びを説いて、その判断を当人同士に考えさせる。源太は己の有利な立場を譲って互いに協力し、円満な完成を考えるが、十兵衛は、それは最高の決断を鈍らせるものと見据えて喜ばず、頑ななまでに択一を望んで固辞しつづける。二転三転二人とも苦しんだが、我を通し続ける相手に源太もとうとう業を煮やして、互いに喧嘩別れに終わる。朗円上人の決裁により遂に生雲塔はのっそり十兵衛が建てる運びになった。 この結果を喜ばぬ若い大工の清吉は、源太親方の仇とばかり、十兵衛に切りかかり手傷を負わせる騒ぎを引き起こした。若い者の過ちは、上に立つものの負い目になって源太は不快をこらえて十兵衛に詫びねばならず、一方傷の痛みに堪えて仕事場に立った十兵衛は、配下の職人たちの信望を集め、仕事は勢いを増して完成に漕ぎ着けるばかりにまで進んだ。」 以下、塔は完成し、落慶式を待つばかりという時に大嵐が江戸を襲う・・・という筋立てになっているのだが、原文を引用した箇所は、十兵衛に切りつけた清吉が源太に取り押さえられてさんざんにぶん殴られて気絶するという場面だ。 二人の言葉が、交替で出てくる。丸から丸までが一人の言葉。特に最後の、「放して。馬鹿め。親。馬鹿め。放。馬鹿め。お。馬鹿め、馬鹿め、馬鹿め・・」の部分。ぶん殴られた清吉がだんだん意識を失っていき、言葉が切れ切れになっていく有様が、こういう書き方で表されている。 露伴は、日本語を作っていると思った。彼は、江戸の戯作などからこの書き方を借りて来たのかもしれないが、この部分を読んだ時に、しばらく、じっと眺めていた事を思い出す。 新しい表現、書き方、それらは日本語を豊かにする。明治の青年たちの努力のあとにふれた気がした。 芝居は、焦点のはっきりした作り方がされていて、引き込まれた。娘たちも満足した様子だったのでほっとする。 「魚屋」のほうはどうも消化不良。 帰って三匹を受け出していつもの生活に帰る。楽しい三泊四日でした。