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行政書士徒然日記

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きゅうりやのばんちゃん@ Re:病気入院(11/16) きょう、足跡を見つけました。 うれしか…
kotona♪@ あけましておめでとうございます タケルさん、早く良くなってくださいね♪ …
総徳@ 謹賀新年 明けましておめでとうございます まだ…
総徳@ え! 大丈夫? なんだ、なんだ! 緊急入院ですか! …
Mrs. Linda@ Re:病気入院(11/16) 暫く更新がないのでどうなさっているのか…

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タケル0127

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2009.10.14
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カテゴリ:歴史

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 鎌倉幕府の滅亡後、高氏は後醍醐天皇から勲功第一とされ、鎮守府将軍および従四位下左兵衛督に任ぜられ、また30箇所の所領を与えられた。さらに天皇の諱・尊治から御一字を賜り尊氏と改名した。尊氏は建武政権では政治の中枢からはなれており、足利家の執事職である高師直・高師泰兄弟などを送り込み、弟・足利直義を鎌倉将軍府執権とした。これには後醍醐天皇が尊氏を敬遠したとする見方と、尊氏自身が政権と距離を置いたとする見方とがある。また、征夷大将軍の宣下を受け、鎌倉に幕府を開く意図があったとする説もある。この状態は「新政に尊氏なし」と言われた。

 後醍醐天皇が北畠顕家を鎮守大将軍に任じて幼い義良親王(後の後村上天皇)を奉じさせて奥州鎮定に向かわせると、尊氏は直義に幼い成良親王を奉じさせ鎌倉へ下向させている。後醍醐天皇の皇子であり同じく征夷大将軍職を望んでいた護良親王は尊氏と対立し、尊氏暗殺を試みるが尊氏側の警護が厳重で果たせなかった。建武元年(1334年)、尊氏、実子恒良親王を皇太子としたい後醍醐天皇の寵姫阿野廉子と結び、後醍醐天皇とも確執していた護良親王を捕縛し鎌倉の直義のもとに幽閉させる。

 建武2年(1335年)に信濃国で、北条高時の遺児北条時行を擁立した北条氏残党の反乱である中先代の乱が起こり、時行軍は鎌倉を一時占拠する。その際、直義が独断で護良親王を殺した。尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の官を望むが得られず、同年8月2日、勅状を得ないまま鎌倉へ進発し、後醍醐天皇はやむなく征東大将軍の号を与えた。尊氏は直義の兵と合流し相模川の戦いで時行を駆逐して、同月19日には鎌倉を回復した。尊氏は従二位に叙せられた。

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 直義の意向もあって尊氏はそのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与え始め京都からの上洛の命令を拒み、独自の武家政権創始の動きを見せ始めた。同年11月、尊氏は新田義貞を君側の奸であるとして後醍醐天皇にその討伐を上奏するが、後醍醐天皇は逆に義貞に尊良親王を奉じさせて尊氏討伐を命じ、東海道を鎌倉へ向かわせた。さらに奥州からは北畠顕家も南下を始めており、尊氏は赦免を求めて隠居を宣言するが、直義・高師直などの足利方が三河国など各地で敗れはじめると、尊氏は建武政権に叛旗を翻すことを決意する。同年12月、尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り、京都へ進軍を始めた。この間、尊氏は持明院統の光厳上皇へ連絡を取り、京都進軍の正統性を得る工作をしている。建武3年正月、尊氏は入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山へ退いた。しかしほどなくて奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢に晒される。1月30日の戦いで敗れた尊氏は篠村八幡宮に撤退して京都奪還を図る。この時の尊氏は京都周辺に止まって反撃の機会を狙っていたことは、九州の大友近江次郎に出兵と上洛を要請した尊氏の花押入りの2月4日付軍勢催促状(「筑後大友文書」)から推測出きる。だが、2月11日に摂津豊島河原の戦いで新田軍に大敗を期したために戦略は崩壊する。そのため、尊氏は摂津兵庫から播磨室津に退き、播磨の有力者赤松円心の進言を容れて京都を放棄して九州に下った。

 九州への西下途上、長門国赤間関(山口県下関市)で少弐頼尚に迎えられ、筑前国宗像大社宮司宗像氏範の支援を受ける。宗像大社参拝後の3月初旬、筑前多々良浜の戦いにおいて後醍醐天皇方の菊池武敏を破り勢力を立て直した尊氏は、京に上がる途中で光厳上皇の院宣を獲得し、西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上した。同年4月25日の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り、同年6月、京都を再び制圧した。

 京へ入った尊氏は、比叡山に逃れていた後醍醐天皇の顔を立てる形での和議を申し入れた。和議に応じた後醍醐天皇は同年11月2日に光厳上皇の弟光明天皇に神器を譲り、その直後の11月7日、尊氏は建武式目十七条を定めて政権の基本方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言した。一方、後醍醐天皇は同年12月に京都を脱出して吉野(奈良県吉野郡吉野町)へ逃れ、光明に譲った三種の神器は偽であり自らが帯同したものが真物と宣言して南朝を開いた。

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Last updated  2009.10.14 04:51:34
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